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#映画私知ら# #私はあなたを知らない、# 映画『私はあなたを知らない、』 Fan's Voice様の独占オンライン最速試写会にて🌵 13年前、私を娘のように愛してくれたのは 母を殺した男でした ひとりの時間を好み、他者との関わりを避けるように生きてきた夕平は、職場に新しくやってきた紗月と出会い恋に落ちる 紗月が朝子という5歳の娘がいるシングルマザーだと知るも、夕平はその事実を受け入れ、“家族”という幸せの形を追い求めていくのだが… 『湯を沸かすほどの熱い愛』の中野量太監督が10年ぶりに完全オリジナル脚本で挑んだヒューマンサスペンス 以下、なるべくネタバレを避けて感想を書いたので、よければ最後までお付き合いください🙇‍♂️ 物語は、「なぜ自分を娘のように愛してくれた男は母を殺したのか?」、「その日、母と男の間に何が起きたのか?」を軸として進んでいくが、その根底には監督がこれまでの作品でも描き続けてきた“家族とは何か”というテーマがあり、愛を与えるはずの“家族”という場所で、愛が足りなくなった時にいったい何が起こるのか?が描かれている その“愛”と同時に、今回の物語では“赦し”がもうひとつのテーマとなっている 前半は夕平の視点をメインに、家族という幸せの形に出会い、追い求める中で、徐々に破滅していく、“愛”とは何かについて描かれている そして後半は朝子の視点をメインに、なぜ母は殺されたのかという謎に迫り、母を殺した男に向き合おうとする、“赦し”について描く この対比が物語として観やすく、徐々に謎が明らかになっていく点もサスペンスとして面白かった 夕平の気質や人柄が丁寧に描かれているからこそ、犯行に至るまで、そして犯行の瞬間の彼の心理描写がとても印象的でした そんな彼の繊細な心情を、言葉だけでなく表情や振る舞いで体現した坂口健太郎の演技も素晴らしかった 夕平が決して特別な人間ではなく、特に現代においては夕平のような人間の方が多いのではと感じる彼の性格や生活態度、そんな人間が愛を知った時にどう変化していくのかが他人事ではないと思える作品でした 映画『私はあなたを知らない、』は8月28日(金)公開です 是非、劇場で🎞️ @FansVoiceJP
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年金制度は破綻しないという言葉には、一種のレトリックがある。年金の振り込みが続く限り、制度上は破綻していないと言える。だが円安や物価高でお金の価値が下がり、受給額が暮らしの上昇に追いつかなければ、同じ一万円で買えるものは減っていく。昨日まで十日分買えた食料が、明日は八日分になる。薬代や光熱費を払えば、肉や魚を諦める。制度は動いているのに、生活は少しずつ止まっていく。それは「橋は壊れていない」と説明しながら、橋の先が向こう岸まで届いていないようなものだ。 財政上の破綻と、生活上の破綻は違う。 国は前者だけを否定して安心を語るが、国民が恐れているのは後者である。 支給されるかだけではなく、その金額で何を買えるのかが問われている💡 もちろん、自分で備えることも大切だ。 貯蓄や資産形成を否定する必要はない。 しかし、それを社会保障の代用品にしてはいけない。 投資には元手がいる。 元手には余裕がいる。 その余裕を持てない人に「なぜ投資しなかった」と問うのは、泳げない者に浮輪を売りつけ、買えなかった責任を溺れた本人に負わせるようなものだ。 必要なのは、官僚を悪者にすることでも、高齢者だけを特別扱いすることでもない。 物価に負けない最低限の所得保障、住居や医療を含めた支援、若い世代が無理なく備えられる賃金と仕組みを同時に整えることである。 現役世代と高齢者を「奪う側」と「奪われる側」に分ければ、喜ぶのは責任を逃れたい者だけだ。 今日の若者も、いつか高齢者になる。 高齢者が安心して消費できれば、そのお金は地域の店や働く世代にも戻ってくる。 社会保障とは、弱い者を一方的に養う制度ではない。誰もが弱くなる日のために、元気な時の自分たちが共同で用意する灯である。 人間は金だけを積み立てて生きているのではない。 子どもを育てた時間。 病人に付き添った夜。 誰かのために働いた年月。 それらも社会を支えた、見えない積立金である。 年金制度を守るとは、帳簿を存続させることではない。その見えない積立に、老後の安心で応えることだ。 橋が残っているだけでは足りない。疲れた人も、足の遅い人も、手を取り合って向こう岸まで渡れる橋にしなければならない。 あたしは信じている。 国の制度は冷たい数字から生まれても、人の痛みを知ることで温かく変えられる。 老後を自己責任の荒野にせず、長く生きたことを皆で祝える国へ。 それこそが、未来の自分自身に贈る、最も大きな愛なのである。
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【命がけの実名告発:7月12日(日)NHKスペシャル出演のご案内】 皆様: いつも温かい応援をいただき、誠にありがとうございます。民主中国陣線の王戴です。 今週末、7月12日(日)午後九時より放送されるNHKスペシャル「スパイ 機密と監視の境界で」に、私が出演いたします。 今回の放送にあたり、私は中途半端なモザイクや音声加工をすべて拒否し、私の「本名(王戴)」を出し、顔も隠さず、声も変えない完全な【実名・素顔】の状態で出演することを決断いたしました。 今回の私の出演時間は、番組全体の構成上、決して長いものではありません。しかし、日本の公共放送で堂々と実名を出し、ありのままの真実を日本社会に届けること自体が、私を守る最大の盾になり、国益にもつながると確信したため、短い放送尺であっても一切妥協せず実名での放送を求めました。 実は、この5月の撮影を終えてから現在までに、私の身の回りでは恐るべき事案が立て続けに発生しています。犯罪組織を利用した直接的な脅迫に加え、デジタル空間では極めて高度なサイバー攻撃が行われました。 私に届いた書面取材の申し込みは、台湾の主要メディア「上報」の国際部特約記者を名乗り、かつてNHKドキュメンタリーの主人公であり、NHKと共に歴史を記録してきたパートナー(共同クリエイター)とも言える「寇愛哲」氏の名を騙った標的型フィッシング(スピアフィッシング)でした。専門家の分析により、私のパスワードを盗み、デバイスにスパイウェアを植え付けるための中国共産党のソフトウェアであることが判明しています。 中国側は、私がNHKの取材を受けたことを見越したかのように、「実在する台湾メディアの肩書き」と「NHK側が最も信頼し、その名前を出されれば私が絶対に疑わない人物の経歴」をピンポイントで狙って攻撃を仕掛けてきているのです。 この看過できない一連の事態を重く受け止め、私は警視庁警視総監宛てに「国境を越えた弾圧に関する被害報告および保護要請」を正式に提出いたしました。現在は警視庁の担当の方とも直接つながり、緊密な連携と厳重な警戒体制をとっています。 放送時間は短くとも、私が命がけで示した確骨たる姿勢と、日常のすぐ裏側で現在進行形で行われている情報戦のリアルを、ぜひ一人でも多くの日本の皆様に見ていただきたいと願っております。 放送当日、ぜひご覧いただき、忌憚のないご意見やご感想をお寄せいただければ幸いです。どうぞよろしくお願い申し上げます。 王戴 リンク: #NHKスペシャル# #スパイ# #安全保障# #サイバー攻撃# ----------------------- 【冒著生命危險的實名指控:7月12日(日)NHK紀錄片特別節目出演通知】 非常感謝大家一直以來給予我的溫暖支持。我是民主中國陣線的王戴。 本週末,7月12日(日)晚上9點起播出的NHK特別節目《間諜:在機密與監視的邊界》(スパイ 機密と監視の境界で)中,我將出演。 在這次節目製作中,我拒絕了所有折衷的打碼或聲音處理,毅然決定以我的【本名(王戴)】、真實面容以及原聲完全公開出鏡。 由於節目整體結構的關係,我此次的出場時間並不算長。然而,在日本的公共電視台(NHK)上堂堂正正地公開實名,將不容掩蓋的真相傳遞給日本社會,這本身就是保護我的最大盾牌,同時也事關日本的國家利益。因此,即便是簡短的播出時長,我也在實名出鏡這一點上絕不妥協。 事實上,自今年5月完成拍攝至今,我的身邊接連發生了令人震驚的嚴重事態。除了遭到利用犯罪組織進行的直接恐嚇外,在數字網絡空間中,我也遭遇了極其高級的定向網絡攻擊。 我收到的一份書面採訪邀請,對方冒充台灣媒體《上報》的國際部特約記者,並盜用了曾作為NHK紀錄片主角、被視為與NHK一同記錄歷史的合作夥伴(共同創作者)「寇愛哲」的身份。經專家分析,這是一次精準的魚叉式網絡釣魚(Spear Phishing),其目的是企圖竊取我的密碼並在我的設備中植入中共的間諜監控軟件。中共似乎早就洞悉了我接受NHK採訪的情況,精準地瞄準了「實在的台灣媒體頭銜」以及「NHK方最信任、一旦拋出名字我絕不會懷疑的人物的經歷」來對我發動攻擊。面對這一系列無法坐視的嚴峻事態, 我已正式向日本警視廳警視總監遞交了《關於跨國鎮壓的受害者報告及保護請求》。目前,我已與警視廳擔當者直接建立聯繫,採取緊密協作與嚴密警戒的防範體制。 雖然播出時間很短,但我仍希望盡可能多的日本及各界民眾,能夠看到我冒著生命危險展現的堅定立場,以及正發生在我們日常生活中、且仍在進行中的這場情報戰的殘酷現實。 當天節目播出時,歡迎大家收看,並希望能聽到您坦誠的意見與反饋。非常感謝。 王戴 ---
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83歳の母は、46年間、知的障害のある息子を介護し続けた。 息子は言葉をうまく話せない。 ひとりで生活することもできない。 それでも母にとっては、 何歳になっても大切な我が子だった。 ご飯を食べさせ、 体を拭き、 眠るまでそばにいる。 そんな毎日を、母は46年間続けてきた。 でも、母も少しずつ年老いていく。 自分の体が思うように動かなくなり、 いつか自分が先に死ぬ日が来る。 そのたびに母は思った。 「私がいなくなったら、この子は誰に守ってもらえるんだろう」 施設に預ければ安心なのか。 誰かが本当に、この子の苦しさを分かってくれるのか。 母には、息子を残して逝くことができなかった。 そして母は、息子に睡眠薬を飲ませ、呼吸を止めさせた。 もちろん、許されることではない。 罪は罪だと思う。 でも、46年間ずっと息子の人生を背負い続けた母が、 最後に「この子をひとりにできない」と思ってしまった悲しさを考えると、胸が締めつけられる。 家族の愛だけでは支えきれなかった、 あまりにも悲しい事件だと思う。
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#カッコーの巣の上で# PARCO劇場🎭 #間宮祥太朗# 興奮した。 自分の中にある感性が共鳴し、 音を立てるのではないかというほどに、 興奮した。 それは、 アドレナリンでハイになるようなものとは違って、 沸々と湯が沸くようなものだった。 「これが間宮祥太朗のストイックか」 と呟いてしまった。 小栗旬、綾野剛、田中圭と、 同世代にストイックを化身にしたような人種がある。 しかし、 その魅力(彼らがスターたる所以)は、 ストイック自体ではない。 全て色が違う。 ストイックという花の種類だが、 その形も色も全く違う。 だからこそアートだ。 だからこそスターだ。 この感覚を与えるまでに洗練された表現は、 そう多くはない。 間宮からもそれを感じさせられた。 新たなストイックの花を見た。 その香り、その造形、 全てから感激を引き出され、本当に興奮した。 「カッコウの巣の上で」 大抵の場合、 昔に愛した作品を塗り替えられることは出来ない。 しかし、今回は違った。 それは、 昔の作品と"同じように"してくれたからではなく、 新しく魅せてくれた感激。 表現者として、 1番難しく、1番やり甲斐のあることかもしれない。 人が魅了される時、 そこには何らかの要素のかけ算があるように思う。 (私はかけ算できないが…) 例えば、 「愛×サスペンス」だったり、 「哀愁×ホラー」だったり。 今回の間宮は、 「優しさ×狂気」だった。 この2つは、混ぜるな危険の代表だと思う。 それは実生活においては触れない方がいい領域だ。 人間が堕ちていく要因の代表だと思う。 その恐ろしさが、目の前の舞台にあった。 しかも、それは狙われて出ているような類ではなく、 滲み出ている類のものだ。 …さらに恐い。 内容としてはホラーでもないし、サスペンスでもない。 どちらかといえば、社会派ドラマだ。 にも関わらず、 恐れを与えてきた。 思えば、 間宮自身に「よっ!」と、 酒片手に肩を叩くとき、 少しの恐さがあるように感じていた。 それは、 故意的に恐がらせているのではなく、 自然なものだ。 彼の中の何かを目覚めさせてはいけないんじゃないか というような類のものだ。 彼自身にある、 優しさと狂気。 そこに艶もある。 私の中のアートも、 暴徒として集会を始めてしまった。 その責任は、 彼自身に飲みながらとって貰おうと思う。 いや、この勢いで出来た私の作品に、 出てもらおうか…笑
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📅6/19(金) いよいよ劇場公開 🇬🇧NTLive『みんな我が子』 作アーサー・ミラー × 演出イヴォ・ヴァン・ホーヴェ 出演はドリームキャストと絶賛された、ブライアン・クランストン/マリアンヌ・ジャン=バプティスト/パーパ・エッシードゥ/ヘイリー・スクワイアーズほか。 🖊️いよいよ今週末からの劇場公開に向け、一足先に本作をご覧いただいたアーサー・ミラー作品にゆかりがある方々から本作について、推薦コメントが届きました。コメントを寄せてくださったのは、2011年上演の『みんな我が子』でアン・ディーヴァー役を担当した朝海ひかるさん、6/26開幕のミラー作『セールスマンの死』で翻訳を担当している小田島創志さん、これまでにミラー作『セールスマンの死』(18・21年)や『アメリカの時計』(23年)を演出してきた長塚圭史さん、『みんな我が子』(22年)や『橋からの眺め』(23年)などミラー作品を多数翻訳してきた広田敦郎さん、2022年に自身が主宰する劇団ガルバでミラー作『THE PRICE』を上演し、同年には広田敦郎さん訳『みんな我が子』でドクター・ジム・ベイリス役を担当した山崎一さんらです。  世界で戦争が終わらない今の時代だからこそ、心に刺さる衝撃の本編を、ぜひ映画館でお楽しみください。 《著名人からのコメント》 私は以前、イヴォ・ヴァン・ホーヴェさん演出の『ガラスの動物園』を幸運にも拝見しておりました。観客として、その時に味わったストーリーへの没入感は今でも忘れられません。そして今、この『みんな我が子』でも同じ感覚を味わう事ができ、興奮しております。 画面越しとは思えないほど俳優の息遣いや感情が伝わってきて、目を離す事ができませんでした。ヴァン・ボーヴェさんの観客を物語へ引き込む演出、そしてドリームチームといわれるキャスト陣を、是非皆さまにも体感していただきたいです。現代を生きる私たちにも深く響くテーマに満ちており、観終えた後もさまざまな問いが心に残りました。 ✨朝海ひかる(俳優) アーサー・ミラーを翻訳していると、台詞の妙に感嘆する。台詞によって紡ぎ出される個人の生活が、社会の縮図となっている。そしてこの舞台、喜怒哀楽の色彩が狂おしく、切ない。イヴォ・ヴァン・ホーヴェの芸術的で滑らかな演出が、繊細に会話(と梯子)を立たせている。 人間とは何か、生活とは何か、豊かさとは何か。戦争がいかに人を狂わせていくか。 『みんな我が子』、いつか翻訳してみたい。いつ訳せるか、フランクに星占いで占ってもらおう。 ✨小田島創志(戯曲翻訳家) この戯曲はこんな戯曲だったのかと、イヴォ・ヴァン・ホーヴェにまた教えられた。強風で倒れた庭の木の、リアリティを無視した大きさ。物語が核心に近づくにつれて、深海のような暗い青で舞台を浸す照明。遠い森の奥から聞こえてくるような木に斧を入れる音。肌の色が違う俳優を配した家族。鋭利な彫刻刀で掘り出すようにそれらが露わにするのは、マチズモと資本主義にどっぷりつかった(トランプのようなキャップを被っている)父親だけでなく、登場人物それぞれに潜む他者への差別意識だ。父親の何かしらを受け継ぐのが息子なら、作品のタイトルは、人の良心ではなく、永遠になくならない人間の欠点を指してもいるのではないかと怖くなった。そしてそれは、観るべき怖さだ。 ✨徳永京子(演劇ジャーナリスト) 愚かで、愛おしい、庶民の暮らしがある。どうにか折り合いをつけ、ギリギリ許容できるところで、ささやかな幸福を掴み取り、誰しも生き抜いていく。正義や誠実さは時に鋭利な凶器となる。そして愛は悲しみを深くさせる。シンプルな舞台装置の中で、けれど終始観客の目と耳を執拗に刺激しながら、ケラー家とディーヴァー家とその隣人たちの傷ついた心にジリジリと迫る。戦争が続く限り、世界中でこの物語は続く。つまり終わらないということだろうか。 ✨長塚圭史(劇作家・演出家・俳優) よく知っていたはずの劇に、もう一度打ちのめされた。イヴォ・ヴァン・ホーヴェの演出は、『みんな我が子』が単なる社会派の家族劇ではなく、罪と記憶をめぐる現代の〈悲劇〉であることを鮮やかに示す。シンプルで象徴的な空間に浮かび上がる日常の言葉の二重性、そして拭いきれない傷痕──こんなにも壊れた世界で、忘れて生きることなど、果たして可能だろうか? ✨広田敦郎(戯曲翻訳者) いま観るべき作品! アーサー・ミラーの言葉が何度も心に刺さる。イヴォ・ヴァン・ホーヴェの演出はまさに今の世界情勢。あの国のリーダーたちにも是非観てもらいたい、感じてもらいたい、「みんな我が子」なんだと! ✨山崎 一(俳優)
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「いい話だけど出版は無理。書店さんに並べる棚がない」 と何回か言われたことがあります。 「ジャンルがない小説」はそもそも出版が難しい。 『ファルティマの夜想曲』 二つの月がある、架空の港街を舞台にした24歳の娼婦が主役の物語。 企画会議を通したければ、 「主役を10代、娼婦もなし」「娼婦が書きたいなら、実在の歴史にはめるか、現代の風俗店に問題提起を入れ込む」 等しないと無理。 私自身商業作家として、普段は「棚はどこ」「ターゲット」「売りは何か?」ということを当然考えるし、編集さんに「こういうものを書いてほしい」と言われば120%応えたいと努力します。 なにより作家買いをしてくれる読者さんの期待を裏切りたくはない。 葉山透に求められているのは、ハラハラドキドキのサスペンス、ミステリ、SFを用いたギミック、娯楽映画のような爽快感だろうと思うから。 でも「ファルティマ」に限って言えばこの形を変えたくはなかった。 棚がないのはわかっていても、たくさん売れてメディアミックスなんて絶対ならない物語だとしても、変えたくなかった。 本読みの方なら理解していただけると思うのですが、読者として「この小説、メジャーにはならないけど自分はめっちゃ好き」という作品ありますよね? わかりやすくてキャッチーで王道は正義。私も普段はそういう小説を書きたくて書いてます。大好きです。 しかしファルティマは、好きな人にはぶっ刺さるけど、刺さる人はごくわずかだろう、むしろ嫌いという人もいるだろう、でも書きたかった。 いえ、正直に言いましょう。 この物語は運よく商業で出たけれど、商業用にプロットを練ったものではありません。 友人、ではない。知人というのも憚られる。そんな遠い関係の人でしたが、吉原で働いている人がいました。 貧乏のどん底で育ち、頭がいいのに中卒。会社ではゴミのように扱われ、仕事をやめ吉原で働き始めました。 貧しい母子家庭に育った彼女は、このお金で母親にまともな暮らしをさせてあげられる、自分も生まれて初めて欲しいものを好きに買えた、私は今の生活に満足している、誰にも同情なんかされたくない、と言いました。そう言う彼女に、私は何も言えませんでした。でも、やっぱり、いけなくないけどよくもないだろう、という気持ちがありました。友人として何か言えるほど近くもない。そこで私がしたことは物語を書くことでした。なんでそんなことをしたのか、自分でもよくわからない。 さらに、吉原の闇を書くわけでもなく、ファンタジー世界観の美しい月と花と潮の香りに満ちた綺麗な夜の話を書いた。頭の中にだけあった一大冒険譚の中の脇役の娼婦を主人公にして、物語を書き始めた。 我ながら謎すぎる。   しかし、公募やコンテストに出すことを考えずに書いたこの物語は、私の作家としての本質と、美点と、同時に限界を顕現しています。 酷い現実を直視して言語化したいのなら私は新聞と評論でいいだろうと思います。少なくとも読者としての私は。 フィクションには、美しいものや愛や夢や希望や信頼が書いてあってほしい。たとえ綺麗事でも「浅い」と言われようとも。私が好きなのは楽しくてワクワクする小説で、現実で死ぬほど落ち込んでいる時、読みたいのは明るい綺麗な小説だったから。 そして恋も嫉妬も友情も信頼も、誰かを想う気持ちはそんなに簡単に名前をつけられない――そんな感情のグラデーションと、読後には明るさと希望と少しの寂しさが残る物語になりました。 さて結局、その人に小説を見せたのか。答えは否です。書き上げた頃には連絡先も解らなくなり、そもそもその人を説得しようとか烏滸がましいことを考えていたわけでもない。ただ、人生の不公平、世の中の矛盾に対し、私は物語を書いた。それも「綺麗事」の物語を書いた。それがすべてで、自己満足の極みです。 でも「たくさん読まれることを狙って考え抜いた小説が売れること」が正義であるように「究極の自己満足」もまた創作の正義でありましょう。   当時の文庫本の 後書きにこう書きました。 「どうしようもなく寂しくて、誰かに電話をしようと アドレス帳を開く。でも結局ボタンをそのままそっと携帯を閉じる。そんな夜に読んでほしい」   いつもの葉山透からはかけ離れた ポエティックな文章⋯。 でも 誰にだってそんな夜は あると そんな夜にこそ横にいて欲しい物語があると、そんな気持ちで書きました。 と、文字数もギリギリになってきたので、まとめに入ると、20年前に絶版になってしまった物語を、同人誌で復刊しました。 「この世界の何処かにいる誰か」に届くことを願って。20年越しに書いた続編「ヴィオレッタ」と一緒に。 文庫本 2冊分に、一人の作家の20年が詰まっています。 通販もしています。 リプ欄にのせておきます。   一人でも多くのやるせない夜を抱えた方に届きますように。
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「いい話だけど出版は無理。書店さんに並べる棚がない」 と何回か言われたことがあります。 「ジャンルがない小説」はそもそも出版が難しい。 『ファルティマの夜想曲』 二つの月がある、架空の港街を舞台にした24歳の娼婦が主役の物語。 企画会議を通したければ、 「主役を10代、娼婦もなし」「娼婦が書きたいなら、実在の歴史にあてはめるか、現代の風俗店にし時代的な問題提起を入れ込む」 等しないと無理。 私自身商業作家として、普段はプロットを作る時「棚はどこ」「ターゲット」「売りは何か?」ということを当然考えるし、編集さんに「こういうものを書いてほしい」と言われば120%応えたいと努力します。 なにより作家買いをしてくれる読者さんの期待を裏切りたくはない。 葉山透に求められているのは、ハラハラドキドキのサスペンス、ミステリ、SFを用いたギミック、娯楽映画のような爽快感だろうと思うから。 でも「ファルティマ」に限って言えばこの形を変えたくはなかった。 棚がないのはわかっていても、たくさん売れてメディアミックスなんて絶対ならない物語だとしても、変えたくなかった。 本読みの方なら理解していただけると思うのですが、読者として「この小説、メジャーにはならないけど自分はめっちゃ好き」という作品ありますよね? わかりやすくてキャッチーで王道は正義です。私も普段はそういう小説を書きたくて書いてます。大好きです。 しかしファルティマは、好きな人にはぶっ刺さるけど、刺さる人はごくわずかだろう、むしろ嫌いという人もいるだろう、でも書きたかった。 いえ、正直に言いましょう。 この物語は運よく商業で出たけれど、商業用にプロットを練ったものではありません。 友人、ではない。知人というのも憚られる。そんな遠い関係の人でしたが、吉原で働いている人がいました。 貧乏のどん底で育ち、頭がいいのに中卒。会社ではゴミのように扱われ、仕事をやめ吉原で働き始めました。 貧しい母子家庭に育った彼女は、このお金で母親にまともな暮らしをさせてあげられる、自分も生まれて初めて欲しいものを好きに買えた、今の生活に満足している、誰にも同情なんかされたくない、と言いました。そう言う彼女に、私は何も言えませんでした。でも、やっぱり、いけなくないけどよくもないだろう、という気持ちがありました。友人として何か言えるほど近くもない。そこで私がしたことは物語を書くことでした。なんでそんなことをしたのか、自分でもよくわからない。 さらに、吉原の闇を書くわけでもなく、ファンタジー世界観の美しい月と花と潮の香りに満ちた綺麗な夜の話を書いた。頭の中にだけあった一大冒険譚の中の脇役の娼婦を主人公にして、物語を書き始めた。 我ながら謎すぎる。   しかし、公募やコンテストに出すことを考えずに書いたこの物語は、私の作家としての本質と、美点と、同時に限界を顕現しています。 酷い現実を直視して言語化したいのなら私は新聞と評論でいいだろうと思います。少なくとも読者としての私は。 フィクションには、美しいものや愛や夢や希望や信頼が書いてあってほしい。たとえ綺麗事でも「浅い」と言われようとも。私が好きなのは楽しくてワクワクする小説で、現実で死ぬほど落ち込んでいる時、読みたいのは明るい綺麗な小説だったから。 そして恋も嫉妬も友情も信頼も、誰かを想う気持ちはそんなに簡単に名前をつけられない――そんな感情のグラデーションと、読後には明るさと希望と少しの寂しさが残る物語になりました。 さて結局、その人に小説を見せたのか。答えは否です。書き上げた頃には連絡先も解らなくなり、そもそもその人を説得しようとか烏滸がましいことを考えていたわけでもない。ただ、人生の不公平、世の中の矛盾に対し、私は物語を書いた。それも「綺麗事」の物語を書いた。それがすべてで、自己満足の極みです。 でも「たくさん読まれることを狙って考え抜いた小説が売れること」が正義であるように「究極の自己満足」もまた創作の正義でありましょう。 文学フリマ。 「自分が文学と信じるものを作り手が自ら売る」 商業のように「儲けを出さなければいけない」という前提はありません。書き手が負債を請け負う覚悟があればいい。 (同時に、商業で確立されている編集テクニック、装丁、営業広告、全国どこでも1冊から取り寄せできる流通と書店さんというものが、どれだけ洗練されていてありがたいものか実感します。このシステムを持続可能にするには、やはり売れなければいけないな、と) とまあ、文字数もギリギリになってきたので、まとめに入ると、細々と通販しているぶんを、文学フリマ大阪14にも持っていきます。 商業ベースにはのらなくても 「世界の何処かにいる誰か」に届けたい物語を、20年越しに書いた続編「ヴィオレッタ」と一緒に、一冊の同人誌にまとめて。
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牧野真莉愛「モーニング娘。は永遠の夢」 卒業を決めた理由明かす💭 学校行事に参加できない生活も 「モーニング娘。にいる全部の時間が青春だった」 写真集『モーニング娘。牧野真莉愛』 発売記念イベント📖
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