「就職氷河期世代なんて、もう50代なんだから今さら対策しても意味がない」という話を見かけますが、私はむしろ逆だと思っています。
本当に怖いのは氷河期問題が、これから本番を迎えることです。
若い頃に正規雇用へ入れなかった。
低賃金や非正規を長く引きずった。
その結果、十分な貯蓄や年金を積み上げられなかった人がいる。
そしてこれから、
親の介護。
自分自身の体力低下。
定年。
定年後再雇用による収入減。
自分の老後。
が、ほぼ同じ時期に重なってきます。
「もう若くないから支援しても意味がない」ではありません。
若くないからこそ、今ここで立て直さなければ間に合わなくなるんです。
今ならまだ、
雇用を安定させる。
賃金を上げる。
社会保険に入る。
貯蓄を作る。
親の介護と仕事を両立できるように法整備するという手がまだ間に合います。
ここで何もしなければ、あと10年、20年して、
低年金。
無貯蓄。
介護離職。
単身高齢。
生活困窮。
という形で、社会全体に返ってきます。
そして政府は粗雑に「就職氷河期世代の補助」という名目で増税を行い、国民同士の分断を煽り、我々の自己責任として処理しようとする。
就職氷河期対策は、過去の失敗に補償するだけの政策ではありません。
これから完成してしまう大規模な高齢貧困を、今のうちに食い止める政策です。
「今さら遅い」と言って何もしないことこそ、一番高くつくと思います。
氷河期世代が生活保護や介護や医療を必要とする状態まで落ちてから支えるのか。
それとも、まだ働ける今のうちに生活基盤を立て直すのか。
選べる時間が残っているのは、むしろ今です。
「今さら」ではありません。
今を逃したら、本当に手遅れになると思いますよ。
国はわかってるんですかね?
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「就職氷河期世代が苦しかったのは、ブルーカラーの仕事を選ばなかったからだ」
という話を見かけますが、今もゴリゴリのブルーカラーで週6勤務している福祉系インフラ土方の私からすると、
マジで何言ってんだこいつ、ですね。
氷河期世代が全員、冷暖房の効いたオフィスでスーツを着る仕事だけを待っていたとでも思っているのでしょうか。
身体を使う仕事へ行った人間なんて、いくらでもいます。
見えていないだけです。
建設へ行った。
物流へ行った。
工場へ行った。
介護へ行った。
警備へ行った。
非正規でも何でも、とにかく食うために働いた。
そしてそこで、低賃金、長時間労働、使い捨てに近い働かせ方に、死にものぐるいで耐えてきた人たちがいる。
それを今になって、
「仕事はあった」
「選ばなければ働けた」
と言う。
生きるためなら、どんな賃金でも、どんな労働時間でも、どんな扱いでも受け入れろ。
そんな状態を「雇用機会があった」と呼ぶのは、絶対に違います。
そして当然、ホワイトカラーへ行けた人が天国だったわけでもありません。
ブルーカラーへ行った人も、非正規へ行った人も、何とか正社員になった人も、それぞれ違う形で氷河期の傷を背負っています。
それを二十年以上経ってから、
「仕事を選んでいたからだ」
と本人の選択の問題に書き換えるのは、あまりにも短絡的です。
あの時、私たちには「好きな道を選べるほどの道」なんてありませんでした。
入口そのものが無かった。
その中で、僅かに残っていた細い道を選ばなかった人間が悪い、と今になって言う。
これほど残酷な後出しジャンケンもないと思います。
社会が入口を狭めた。
企業が人を育てなかった。
非正規や低賃金へ押し込んだ。
それなのに最後は、
「あなたが選ばなかったから」
「あなたの努力が足りなかったから」
と個人の自己責任へ戻して終わらせる。
それは問題を解決しているのではありません。
社会の失敗を、本人の選択ミスということにして帳簿から消しているだけです。
「そんな問題は最初から存在しなかった」
そういうことにしてしまえば、直視したくない現実から逃げることだけはできますからね。
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労働組合が今さらどれだけ綺麗事を並べても就職氷河期世代は忘れません。
私たちがブラック企業や使い捨て雇用、長時間労働に苦しめられていた時代に、既存労組の中心にいたのはすでに正社員として会社の内側へ入れた人たちでした。
正社員の入口にすら立てなかった若者。
非正規で使い潰された人。
組合のない中小零細企業で壊された人。
最も助けを必要としていた労働者ほど、最初から交渉の席にすらいなかった。
苦しさを訴えれば、
「選んだ会社の問題」
「嫌なら辞めればいい」
「努力して正社員になれ」
何もかも自己責任にされた。
本来なら、その自己責任論をひっくり返すのが労働運動の役目だったはずです。
個別に闘った地域ユニオンがあったこと自体は否定しません。
それでも、一世代がブラック企業の餌場にされていた時代、労働運動の主流は私たちを守る巨大な受け皿にはならなかった。
今さら「すべての労働者のため」と言われても、聞きたいことは一つです。
私たちが一番助けを必要としていた時、あなたたちはどこにいた?
世界中の弱者に「連帯しよう」と呼びかけながら、就職氷河期の日本の若者には「自己責任」、
当時の左派や労組に感じた不信は思想の違いだけではありません。
当然平和も人権も大切です。
就職氷河期世代の人間だって当然そう思ってます。
「海外や少数者を助けるな」では決してありません。
そこまで広い連帯を語れるのに、なぜ目の前で大量に壊されて続けていた若者には同じ熱量を向けなかったのか?
目の前でブラック企業に使い潰される人を救えなかった連帯を、綺麗事だけで信用しろと言われても無理があるんですよ。
その事実だけは絶対に忘れてやらねぇからな。
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『みい山』がもしも国内だけにとどまらずアニメが海外配信された場合、
作品の問題意識より先に「日本人男性の性欲は危険だ」という雑なイメージが輸出されてしまうのではないか?
作中には水責めや浣腸を伴う虐待的な性サービスや、中学生のみいちゃんがクラスの男子から性的に追い込まれる場面があります。
しかしここで加害側として描かれるのは障害のある男性という特殊な枠だけではなく、社会の中にいる「普通の日本人男性」がハンデのあるみぃちゃんに対して加害を行うという立ち位置です。
国内なら、作品全体の文脈から「一部の異常な性癖」「一部の悪趣味」「特殊な事例」と理解されるかもしれない。
でも海外配信では翻訳、宣伝、切り抜きによって文脈が剥がれ、
「日本にはこんな風俗がある」
「日本の男子中学生は女性をこう追い込む」
「これが日本人男性の性文化だ」
と主語だけ日本全体まで巨大化されかねない。
正直、私は海外SNSの感受性やリテラシーをそこまで信用していません。
数秒の切り抜きと数枚の画像だけで一部の異常者を国民性に変換し、一国の男性全体を断罪する光景なんてこれまで何度も見てきたからです。
「作品をきちんと見れば、一部の人間の話だと分かるはず」
そんなものを海外SNSの読解力に丸投げするのはあまりにも呑気ではないでしょうかね?
作品を現代では売るなら、表現する自由だけでなく、海外に流れてしまうことも前提に捉え、一部の異常な嗜好を日本人男性全体の性文化として輸出しない責任も制作側と配信側に発生してしまうと思います。
それだけ今のコンプライアンスは厳しいのです、本当に大丈夫なんでしょうか色々と…。
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『みいちゃんと山田さん』漫画業界と福祉業界、両方に携わった経験のある人間としてアニメ化についての私の考えです。
まず漫画業界側から見れば、既刊6巻で累計280万部を突破した作品がアニメ化の候補に挙がるのは商業的に極めて自然な流れです。これほどの販売実績がある作品を出版社や出資側が簡単に見送るとは考えにくいでしょう。
アニメ化されれば、原作の再販だけでなく、配信、商品化、タイアップ、海外展開などさまざまな事業へ広げられます。
要するに非常に大きな「お金の匂い」がする作品です。
そうです、数字を見て投資を判断する人と、作品の内容や社会的影響に責任を負いながら、実際に映像を完成させる人は同じでは無いのです。
しかし、売れるから企画が動くことと、どう作っても許されることはまったく別の話です。
次に福祉従事者としての立場から考えます。
津久井やまゆり園事件から10年となる2026年7月26日にアニメ化が発表されました。これが意図的だったのか、単なる確認不足だったのかは分かりません。
慎重に制作しようと考えていたのであれば「この日に発表してよいのか」という意見が、企画や広報の段階で一度は出て然るべきでした。
障害や認知上の困難を想起させる人物を描く作品のアニメ化を発表した以上、意図の有無にかかわらず、制作側のリスク管理能力が問われるのは当然です。
障害や生活上の困難を扱う作品を世に出すということはそれだけ多方面への配慮を求められるということです。福祉従事者から見ればそれは特別に厳しい要求ではなく、業務上の常識に近い。
『みいちゃんと山田さん』は私には福祉の事例記録を漫画として読んでいるような感覚を抱かせる作品です。
もちろん、漫画作品と実際の支援記録は別物です。
福祉の事例記録には本人や家族の生活、依存、加害と被害、支援の限界など、一般の人が読めば好奇の目を向けかねない内容が時に赤裸々に書かれています。
それが許されるのは今後の対人援助にどう生かすのか、困難な事例にどのような支援が可能なのかを検討するという明確な目的があるからです。
支援者はそこに記録された人を見世物にしないこと、安易に断罪しないこと、簡単な正解を当てはめないことを徹底的に学びます。
記録を読む資格とは他人の人生をのぞき見る権利ではなく、その人生を粗末に扱わない責任なのだと思います。
だからこそ、福祉従事者の中にこうした物語が大衆向けの娯楽として広く消費されることへ、生理的な嫌悪や不安を抱く人がいることも理解できます。
作品が狭いサブカルチャーの中で読まれているだけならここまで大きな議論にはならなかったかもしれません。
しかし映像化されるとなれば、作品を目にする層も作品から派生する言葉やキャラクターの扱われ方も大きく変わります。規模が変われば求められる責任も変わります。
一方で私は「批判が起きるからアニメ化してはいけない」とまで言うつもりはありません。
作品が描く現実と向き合い、批判も引き受ける覚悟があるのであれば制作する意味はあると思います。
しかし、その覚悟は言葉だけでは測れません。
年齢区分、コンテンツへの注意表示、宣伝表現、キャラクターの商品化、放送後に予想される当事者への揶揄や二次被害への対応まで、制作全体に表れるものです。
適切な年齢区分が設けられた作品について「子どもが見たらどうする」とだけ批判するのは違います。保護者や視聴者側にも作品を選ぶ責任があります。
それでも、年齢区分を設ければ制作側の責任が終わるわけでもありません。
現時点ではスタッフやキャストなども後日発表とされており、どのような体制で制作され、どのような視聴区分や注意表示が設けられるのかはまだ明らかになっていません。
作品には作者なりの意図と考えがあるのだと思います。
だからこそ今回の批判を単なる「表現規制」として退けるのではなく、何が不安視されているのかを制作側が受け止め体制を見直していることを願います。
売れるから作る。嫌なら見るな。
その二つだけではこの作品を扱うにはあまりにも議論として粗雑です。
問われているのはアニメ化してよいか悪いかだけではありません。
これほど脆く、複雑な人生を描いた物語を、誰かの尊厳を削る見世物にせず娯楽として世の中へ届けられるのか。
問われている批判の大半は〝表現の自由を行使するなら、その表現が大規模に流通した後に起きることをどこまで引き受けるのか〟です。
作品の価値を守ることと、その作品によって現実の誰かが傷つけられないようにすること。その両方を引き受けるのが映像化する側の責任だと思います。
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求人票には書かれていないけれど正社員には実際ここまでの応募資格が求められている。
家事を代わってくれる人がいる。
子どもが病気の時に預け先がある。
急な残業に対応できる。
通勤で消耗しない。
平日の用事を誰かに任せられる。
転職したての無収入の期間を自力で耐えられる貯金がある。
会社は8時間分の労働力を買っている顔をしながら、残り16時間で翌日も働ける人間に整えてこいと要求する。
家のことは家族がやる。
体調管理は自己責任。
生活上の問題を職場へ持ち込まない。
それを全部できる人だけを「普通に働ける人」と呼ぶ。
労働市場が評価しているのは本人の能力だけではなく、その人の後ろにある家族や健康、住居や交通手段、貯金まで含めた生活基盤なんだと思う。
その基盤を持たない人を「甘え」と呼ぶ前に、普通の前提がずいぶん高価になっていないか?と思います。
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会社で働く8時間を乗り切る。
残りの16時間は食事をして、風呂に入り、家事を済ませ、眠り、翌日もまた8時間働ける状態へ自分を整えることに消えていく。
そして平日に蓄積した疲労を、土日を使って回復する。
こうなると、仕事は生活の一部ではなくなる。仕事が生活そのものになってしまう。
生活のすべてが、次の仕事を成立させるための準備と修理になり、人生の主語が「自分」ではなく「仕事」になる。
一方で、世の中のコンテンツはどんどん豊かになった。
Netflix、YouTube、Amazon Prime Video。音楽も、漫画も、ゲームも、昔よりはるかに安く、手軽に楽しめる。
私たちが子どもの頃と比べれば、現代は娯楽の楽園だ。
けれど消費社会は、その豊かな娯楽を並べながら「人生を楽しめ」「趣味を持て」「休日を充実させろ」と、こちらをせっついてくる。
楽しめるコンテンツは増えたのに、それを楽しむための時間と体力は仕事に持っていかれる。
娯楽が足りないのではない、娯楽へ向かうまでの余白が残っていないのだ。
それなのに、一人当たりGDPが下がった、生産性が低い、と語られるたび、まるで国民一人ひとりの努力が足りなと責めるかのように聞こえてくる。
生活を維持するために毎日働き、自分の時間と体力を削っている人たちに対して、社会はあまりにも失礼ではないかと思う。
余裕があれば、娯楽を楽しむだろう。
時間があれば、映画も本ももっとゆっくり味わうだろう。
仕事をしていない人に趣味があり、働いている人に趣味がないのではない。
働くことで、趣味へ向かうための体力まで使い切っているだけだ。
現代の仕事は、求めるものが多すぎる。
勤務時間だけでなく、安定した体調、感情の管理、急な残業への対応、職場での人間関係、資格の更新、自己研鑽まで求められる。
仕事のために自分を管理し、仕事のために眠り、仕事のために休日を使って回復する。
それで「自分の人生を生きている実感を持て」と言われてもあまりに仕事と生活とのバランスが悪い。
一部の若者が正社員という働き方から距離を置き、非正規や短時間労働を選び、「今を楽しめればそれでいい」と考えるのも、それは単なる甘えではないと思う。
刹那的に見える生き方は、人生のすべてを仕事へ差し出さないための防衛だ。
将来の安定と引き換えに現在をすべて失うくらいなら、今の時間を守る。
社会から投げられる理不尽を正面から受け止めず、のらりくらりとかわして生きる。
それを上の世代は「根性がない」「責任感がない」「甘えている」と言う。
けれど、本当に甘えているのはどちらだろう?
理不尽な要求をしても、黙って受け入れてくれる。
待遇を改善しなくても、人は生活のために働き続ける。
人が辞めても、また誰かを採用すればいい。
そんな前提に、社会の方が甘えてきたのではないか。
人が定着しない。
若者が正社員を避ける。
働く人が心身を壊す。
それでも延命し続ける企業に、どれだけの生産性があるのだろう?
人の心身の安全が脅かされるほど人生を削らなければ存続できない仕事を残すことが、本当に社会の豊かさなのだろうか?
もちろん、自分の仕事が誰かの役に立っていると実感し、誇りを持って働ける人もいる。仕事が好きな人間もいるだろう。
けれど、すべての仕事が分かりやすい意味を与えてくれるわけではない。
「自分の代わりはいくらでもいる」と思いながら、それでも生活のために人生を削って働いている人はたくさんいる。
だが代わりはいくらでもいると言いながら「当たり前にそのぐらい出来るだろう」と、社会が理不尽を「常識」という顔をして覆い隠し続け過ぎてはいないだろうか?
理不尽にも犠牲にも耐えたその人たちに対して、もっと働け、もっと生産性を上げろ、休日も充実させろ、心も健康でいろ、と要求する社会はあまりに失礼だと思う。
そして満たされない私たちは、小さな職場や家庭の中で、誰がより多く何かを犠牲にしているかを張り合っている。
睡眠を削った。
家族との時間を諦めた。
体調が悪くても出勤した。
休日にも仕事をした。
犠牲の大きさが、社会人として立派だと扱われる。
けれど本来問うべきなのは、誰が一番我慢したかではない。
どうすれば、人生を壊さずに働けるのかではないだろうか?
「あなたは何のために生きていますか」
そう聞かれて、質問への答えではなく、仕事や責任や生活費の話ばかりが口から出てくる社会で、心を健康に保てと言われても無理がある。
仕事が人生を支えるのではなく、人生のすべてが仕事を支えている。
その主従関係を、そろそろ真剣に考える必要があると思う。我々は奴隷では無いのだから。
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高齢者福祉を削れという話は、老人を助けるか若者を助けるかの話に見せかけていますが、実際には“介護する家族を公的支援なしで戦場に出すかどうか”の話です。
相手がもう政策論ではなく、
「高齢者=敵」
「福祉=搾取」
「支援を求める人=自分の取り分を奪う人」
という箱に人間を放り込みたいだけで議論をしたいわけでは無いんですよ。
もはや宗教というより、自己責任論と世代間対立と可処分所得への怒りが混ざった、ネット産の呪物です。
厄介なのは、本人たちは正義のつもりで石を投げてくるところです。
高齢者支援を削れば、負担は消えるわけではありません。
家族に移るだけです。
医療費、介護費、在宅介護、介護離職。
その先で潰れるのは現役世代です。
「老人を切れば若者や現役世代が救われる」ではないです。
「若者に親の介護を丸投げする社会になる」だけだと思います。
自分の親を捨てることを他人に強要することの何が健全なんですか。
そしてこれが直撃するのはこれからは高齢者ではなく就職氷河期世代ですよ。
緊縮財政の煽りを受け続けた世代にまだ何か削れ、明け渡せというんですか。
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日本では人も中小企業も「まだ働ける」「まだ潰れていない」内は支援されない。
限界まで自力で耐え、倒れてから潰れてから救済の話になる。
壊れる前に守ることこそ、福祉であり政治がやるべき政策ではないですかね?
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人が余っていた時代に氷河期世代を切り捨て人手不足になれば外国人労働力で補う、
同じ予算と熱量で自国民を雇い直し、育て直していたら、今ほど国外の労働力に頼らずに済んだのではないかと思って止まない。
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日本の完成品ブランドは、かつてほど強くない。
それは真摯に受け止めなければならない事実だ。
だがそれでも部素材、製造装置、精密加工など、機械の中身では今も日本企業が戦っている。
その土台を支えているのは、表に名前の出ない中小企業です。
なのに国はそれらを「重要だ」と言いながら、人材不足や後継者不足で弱っていく現場を十分に守らない。
その技術と意思決定権を外資に握られれば、失うのは会社一社ではない。
日本が物を作る力そのものです。
そこを取られたらこの国は本当に終わる、その危機感がこの国の政治家に無いことが不思議でならない。
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人が余っていた時代に氷河期世代を切り捨て人手不足になれば外国人労働力で補う、
同じ予算と熱量で自国民を雇い直し、育て直していたら、今ほど国外の労働力に頼らずに済んだのではないかと思って止まない。
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会社で働く8時間を乗り切る。
残りの16時間は食事をして、風呂に入り、家事を済ませ、眠り、翌日もまた8時間働ける状態へ自分を整えることに消えていく。
そして平日に蓄積した疲労を、土日を使って回復する。
こうなると、仕事は生活の一部ではなくなる。仕事が生活そのものになってしまう。
生活のすべてが、次の仕事を成立させるための準備と修理になり、人生の主語が「自分」ではなく「仕事」になる。
一方で、世の中のコンテンツはどんどん豊かになった。
Netflix、YouTube、Amazon Prime Video。音楽も、漫画も、ゲームも、昔よりはるかに安く、手軽に楽しめる。
私たちが子どもの頃と比べれば、現代は娯楽の楽園だ。
けれど消費社会は、その豊かな娯楽を並べながら「人生を楽しめ」「趣味を持て」「休日を充実させろ」と、こちらをせっついてくる。
楽しめるコンテンツは増えたのに、それを楽しむための時間と体力は仕事に持っていかれる。
娯楽が足りないのではない、娯楽へ向かうまでの余白が残っていないのだ。
それなのに、一人当たりGDPが下がった、生産性が低い、と語られるたび、まるで国民一人ひとりの努力が足りなと責めるかのように聞こえてくる。
生活を維持するために毎日働き、自分の時間と体力を削っている人たちに対して、社会はあまりにも失礼ではないかと思う。
余裕があれば、娯楽を楽しむだろう。
時間があれば、映画も本ももっとゆっくり味わうだろう。
仕事をしていない人に趣味があり、働いている人に趣味がないのではない。
働くことで、趣味へ向かうための体力まで使い切っているだけだ。
現代の仕事は、求めるものが多すぎる。
勤務時間だけでなく、安定した体調、感情の管理、急な残業への対応、職場での人間関係、資格の更新、自己研鑽まで求められる。
仕事のために自分を管理し、仕事のために眠り、仕事のために休日を使って回復する。
それで「自分の人生を生きている実感を持て」と言われてもあまりに仕事と生活とのバランスが悪い。
一部の若者が正社員という働き方から距離を置き、非正規や短時間労働を選び、「今を楽しめればそれでいい」と考えるのも、それは単なる甘えではないと思う。
刹那的に見える生き方は、人生のすべてを仕事へ差し出さないための防衛だ。
将来の安定と引き換えに現在をすべて失うくらいなら、今の時間を守る。
社会から投げられる理不尽を正面から受け止めず、のらりくらりとかわして生きる。
それを上の世代は「根性がない」「責任感がない」「甘えている」と言う。
けれど、本当に甘えているのはどちらだろう?
理不尽な要求をしても、黙って受け入れてくれる。
待遇を改善しなくても、人は生活のために働き続ける。
人が辞めても、また誰かを採用すればいい。
そんな前提に、社会の方が甘えてきたのではないか。
人が定着しない。
若者が正社員を避ける。
働く人が心身を壊す。
それでも延命し続ける企業に、どれだけの生産性があるのだろう?
人の心身の安全が脅かされるほど人生を削らなければ存続できない仕事を残すことが、本当に社会の豊かさなのだろうか?
もちろん、自分の仕事が誰かの役に立っていると実感し、誇りを持って働ける人もいる。仕事が好きな人間もいるだろう。
けれど、すべての仕事が分かりやすい意味を与えてくれるわけではない。
「自分の代わりはいくらでもいる」と思いながら、それでも生活のために人生を削って働いている人はたくさんいる。
だが代わりはいくらでもいると言いながら「当たり前にそのぐらい出来るだろう」と、社会が理不尽を「常識」という顔をして覆い隠し続け過ぎてはいないだろうか?
理不尽にも犠牲にも耐えたその人たちに対して、もっと働け、もっと生産性を上げろ、休日も充実させろ、心も健康でいろ、と要求する社会はあまりに失礼だと思う。
そして満たされない私たちは、小さな職場や家庭の中で、誰がより多く何かを犠牲にしているかを張り合っている。
睡眠を削った。
家族との時間を諦めた。
体調が悪くても出勤した。
休日にも仕事をした。
犠牲の大きさが、社会人として立派だと扱われる。
けれど本来問うべきなのは、誰が一番我慢したかではない。
どうすれば、人生を壊さずに働けるのかではないだろうか?
「あなたは何のために生きていますか」
そう聞かれて、質問への答えではなく、仕事や責任や生活費の話ばかりが口から出てくる社会で、心を健康に保てと言われても無理がある。
仕事が人生を支えるのではなく、人生のすべてが仕事を支えている。
その主従関係を、そろそろ真剣に考える必要があると思う。我々は奴隷では無いのだから。
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日本人ですら働きづらいと感じ、
若い人ほど離れていく職場へ外国人を入れて、
日本人と同じように空気を読み、
人手不足を善意で埋め、
急な残業を断らず、
会社への忠誠心を示してくれるはずと期待するのは設計から無理があると思わないんですかね?
外国人が日本の労働文化を理解していないのではありません。
契約に書かれていない自己犠牲まで文化も言葉も違う人たちに「日本の文化」として「やってくれるよね?」と要求する方がおかしいんですよ。
人手不足を外国人で埋める前に、なぜ日本人がその業種に定着しなくなったのかを見るべきではないですかね?
そこを見ないで外国人労働者で穴埋めする事はただの問題の先送りなんですよ。
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土曜に寝て終わる人は休日を無駄にしたのではないですよ。
平日に会社へ渡した体力を、無給で補修しているだけなんです。
企業は勤務時間だけを労働と数えるけれど、翌週また働ける身体へ戻す時間と費用は本人や家族が負担する。
会社の生産性の一部は生活側へ押し出した回復コストで作られています。
また働くために休む事は絶対に悪い事じゃない、けど、ただこの無駄にしているように感じる時間に、少しは社会が共感してくれたら、生きやすい社会になるのにな…と思ったりもします。
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求人票には書かれていないけれど正社員には実際ここまでの応募資格が求められている。
家事を代わってくれる人がいる。
子どもが病気の時に預け先がある。
急な残業に対応できる。
通勤で消耗しない。
平日の用事を誰かに任せられる。
転職したての無収入の期間を自力で耐えられる貯金がある。
会社は8時間分の労働力を買っている顔をしながら、残り16時間で翌日も働ける人間に整えてこいと要求する。
家のことは家族がやる。
体調管理は自己責任。
生活上の問題を職場へ持ち込まない。
それを全部できる人だけを「普通に働ける人」と呼ぶ。
労働市場が評価しているのは本人の能力だけではなく、その人の後ろにある家族や健康、住居や交通手段、貯金まで含めた生活基盤なんだと思う。
その基盤を持たない人を「甘え」と呼ぶ前に、普通の前提がずいぶん高価になっていないか?と思います。
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若い子の日本語能力が落ちた、という言い方には私は少し慎重でいたいと思っています。
PISAの読解力を見ると、日本の子どもが全体として読めなくなったとまでは言い切れない。
若い子の日本語能力が単純に落ちた、というより、「世代をまたぐ言葉に触れる機会」が減っているんじゃないかと私は仮説しているのです。
恐らく、若い子達の中の日常の中で「世代をまたぐ言葉」「抽象語」「長い説明」「敬語」「昔の言い回し」に触れる機会が物理的にかなり減っているのではなかろうかと。
理由は数多あるだろうが、核家族化で祖父母世代の言葉に触れにくいこと、
親は常に共働きで忙しく、ゆっくり説明したり雑談したりするコミュニケーションの余裕が家庭の中から昭和や平成初期と比べると明らかに減っている。
その上で読書量が減れば、日常会話では出てこない語彙に出会いにくい。
SNSでは短い言葉、略語、仲間内で通じる言葉が増える。
読書量の増減は諸説あるようだが、読む子供は読む、読まない子供は全く読まないという極端な二極化は進んでいるのは事実らしい。
そうなると普段から本を読まない、世代間コミュニケーションを取る機会の無い若者は、語彙を学ぶ相手は主に同世代同士となり、同世代でのコミュニケーションはやたら弁舌になる一方、違う世代や違う立場の人に説明する時に、言葉の引き出しが足りなく見えるように思うです。
これは本人の努力不足というより、先述した様々な理由から「いろんな大人の言葉に触れる場所」が減った結果ではないか?と。
若い子が「コミュ障」なんじゃなく、親以外の大人と関わる経験が極端に少ないまま、同世代間のコミュニケーションしか学ぶ機会のないまま就職し、職場へ放り込まれているだけではないだろうか?
親以外の大人との接点が減る→ 大人との距離感を練習する機会が減る→ 職場の暗黙の作法が分からない→ 質問・報告・謝罪・雑談・相談で失敗する→ 怒られる、浮く、萎縮す→ 自信をなくす→ 「自分はコミュ障だから働けない」と思い込む→ 本当は経験不足なのに、能力不足として処理される
特にこのループの影響が強いのは、「コミュ障」という言葉が、経験不足・環境不足・練習不足を全部本人の性格に押し込めてしまうという点です。
本当に発達特性や社交不安、精神疾患がある人もいるので、全部を経験不足にしてはいけないのでは?とも思っています。
私は長年就労支援の現場で働いてきましたが、明らかに経験の機会が無かっただけだろうと思われる若者が就職困難者として支援の現場に流れてくる。
もちろん、ちゃんと支援が必要だなと思う若者も居る一方で、ただ職場の作法を知らないだけの人まで「コミュ障」「社会性がない」「最近の若者は弱い」で片付けるのも乱暴だと思うのです。
言葉というのは勉強だけで育つんじゃなくて、雑談、説教、昔話、読書、失敗した時の言い換え、分からない言葉を聞き返す時間の中で育つ。
職場の会話は友達とも親子とも違う。
質問、報告、謝罪、雑談、距離感、注意された後の戻り方相談の仕方を覚える。
でも日々の暮らしでの大人の接点が減ると、これらのコミュニケーションは職場がいきなり本番になってしまう。
練習が少ないまま職場が初めての“大人社会”になってしまい、そこで正解が分からず萎縮したり、自信をなくしたり、働けなくなった人に「コミュ障」と名前をつけているだけの場面もあるんじゃないですかね。
大人の余裕が削られた社会で、若者がしわ寄せを食っている。
若者に「語彙力がない」と言うのは、少し酷じゃない?というお話でした。
どないでしょう?
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日本の働き方って、
「生活上の問題を職場へ持ち込むな」
とは言うのに、仕事の問題は平気で生活へ持ち込んでくるんですよね。
急な残業。
休日の連絡。
帰宅後も抜けない緊張。
翌日また働くための家事、睡眠、体調管理。
単身なら本人の生活が削られ、家族がいれば家族がその穴を埋める。
会社は勤務時間だけを買っている顔をしながら、本人や家族の可処分時間まで使っているんですよね。
かつての正社員は家事や育児や平日の用事を「家にいる誰か」が引き受ける前提で作られた。
家族の形は変わったのに、働き方の前提だけが昭和のまま残っている。
生活を仕事へ持ち込むな。
ただし仕事は生活へ持ち帰れ。
この一方通行が今の時代の息苦しさの正体でもあると思いますし、当然合理化が進んでいくべき部分だと思います。
もっと見る
「生産性がない人間はいらない」みたいな話、ずっと疑問に思っています。
障害者、未婚、子なし、非正規、役職に就てる、就いていないとか。
そういう属性を持つ人を並べて、誰が社会に貢献しているかを品定めする権利なんて本来誰にもないはずです。
しかもそれを同じ労働者階級の人間同士でやっていて、同じ納税者同士が罵り合っている。
誰が一番支配する側に都合よく働いているか。
誰が一番迷惑をかけていないか。
誰が一番“許される人間”か。
生産性の議論なんて「誰が1番支配階級にとって都合のいい奴隷か」を決めるだけの学級会じゃないんですかね。
そんな学級会をしているうちに、制度の問題も、労働環境の問題も、社会保障の問題も見えなくなる。
人間を生産性で値踏みする社会に、自分も身を投じて自分だけは利口のつもりでいるのはなんだかちょっと滑稽だなあと思うんですよね。
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外国人受け入れの失敗って外国人が来たことそのものではなく
「受け入れる」と決めた国が受け入れ後の責任を地域に押し付けたことだと思う。
国が勝手に受け入れて、自治体と住民が後始末する。
それで「共生してください」はさすがに順番がおかしいという国民の怒りは真っ当だと思うよ。
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