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#これが私の代表作# ・はにかみ彼女 ・アマカノ2 ・SiStart! ・一番いいねをもらえた楓さん
初めてカメラの前で脱ぐニコニコの乃蒼さんです🥰 この作品から1年経ったんだなあ😭 私の代表作であり、この作品がここまで愛されなかったら今ここにいないと思う。 デビューして1周年を迎えることができ、ファンの方に愛されている今本当に幸せです🥹 今だから言える話ですが、マスクでデビューめちゃくちゃ怖くて誹謗中傷とか耐えられるかなって不安でした。 ですが実際デビューしてみるといい反応が溢れていて、誹謗中傷なんて気にならないくらい嬉しいコメントばかりでした。 私はすごくマイナス思考だし、躁鬱だしお仕事にも波があります。 マネージャーさん、スタッフさん、ファンの方にもご心配、ご迷惑掛けてしまうこともありましたが今が1番忙しくさせて頂いてて本当に嬉しくて、愛されてるなって実感してます😭❤️ これからもAV業界で長く沢山愛される女優になれるよう羽月乃蒼頑張ります🔥 これからもよろしくお願いします! AV業界2年生頑張ります🥰
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舞台「#MIANEYO〜FINAL〜」# "これは、時代を超えた愛の物語。" 7月9日〜13日 📍あうるすぽっと ▼特設サイト チケット🎫 私の代表作の一つ、大好きな ミアネヨが新しい本になって 帰ってきます! あるひさん最後の公演。 お世話になったあるひさんに 恩返しもしたいと思っています。 主演舞台、是非観に来てください✨ 応援よろしくお願いします!! #舞台ミアネヨファイナル#
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#カッコーの巣の上で# PARCO劇場🎭 #間宮祥太朗# 興奮した。 自分の中にある感性が共鳴し、 音を立てるのではないかというほどに、 興奮した。 それは、 アドレナリンでハイになるようなものとは違って、 沸々と湯が沸くようなものだった。 「これが間宮祥太朗のストイックか」 と呟いてしまった。 小栗旬、綾野剛、田中圭と、 同世代にストイックを化身にしたような人種がある。 しかし、 その魅力(彼らがスターたる所以)は、 ストイック自体ではない。 全て色が違う。 ストイックという花の種類だが、 その形も色も全く違う。 だからこそアートだ。 だからこそスターだ。 この感覚を与えるまでに洗練された表現は、 そう多くはない。 間宮からもそれを感じさせられた。 新たなストイックの花を見た。 その香り、その造形、 全てから感激を引き出され、本当に興奮した。 「カッコウの巣の上で」 大抵の場合、 昔に愛した作品を塗り替えられることは出来ない。 しかし、今回は違った。 それは、 昔の作品と"同じように"してくれたからではなく、 新しく魅せてくれた感激。 表現者として、 1番難しく、1番やり甲斐のあることかもしれない。 人が魅了される時、 そこには何らかの要素のかけ算があるように思う。 (私はかけ算できないが…) 例えば、 「愛×サスペンス」だったり、 「哀愁×ホラー」だったり。 今回の間宮は、 「優しさ×狂気」だった。 この2つは、混ぜるな危険の代表だと思う。 それは実生活においては触れない方がいい領域だ。 人間が堕ちていく要因の代表だと思う。 その恐ろしさが、目の前の舞台にあった。 しかも、それは狙われて出ているような類ではなく、 滲み出ている類のものだ。 …さらに恐い。 内容としてはホラーでもないし、サスペンスでもない。 どちらかといえば、社会派ドラマだ。 にも関わらず、 恐れを与えてきた。 思えば、 間宮自身に「よっ!」と、 酒片手に肩を叩くとき、 少しの恐さがあるように感じていた。 それは、 故意的に恐がらせているのではなく、 自然なものだ。 彼の中の何かを目覚めさせてはいけないんじゃないか というような類のものだ。 彼自身にある、 優しさと狂気。 そこに艶もある。 私の中のアートも、 暴徒として集会を始めてしまった。 その責任は、 彼自身に飲みながらとって貰おうと思う。 いや、この勢いで出来た私の作品に、 出てもらおうか…笑
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>なぜ、1982年の設定なのか? >「問い」を立てると、映画理解が深くなる 『オークストリートの異変』が良かった! 古き良きハリウッド映画を彷彿とさせる。 古き良きといっても、すごく昔のハリウッド というわけでもなく、 私が映画に夢中になっていた10代の頃。 妙に懐かしさを感じさせます。 夫婦仲が不仲で離婚寸前の 微妙な夫婦。 (ユアン・マクレガーとアン・ハサウェイ) そして、2人の子供たち。 中流家庭の住宅街に、 突然、恐竜が出現しパニック陥る。 家族が力を合わせて、その危機を乗り切る・・・。 ストーリーは単純ですが、 細かな描写が良くできているのです。 【以下、ストーリーの記述とネタバレがあります】 ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽    なぜ、舞台が80年代のアメリカなのか? そこを考えると、 本作のおもしろさが倍増します。 本作は、70年代頃に流行った、 動物が巨大化する動物パニックもの を彷彿させるのです。 しかし、70年代、80年代の映画には、 リアルな恐竜は映画には登場しません。 1993年の『ジュラシック・パーク』で、 リアルな恐竜の動きに度肝を抜かれた! だから、80年代の映画には、 リアルな恐竜は出ていないのです。 つまり、 80年代のアメリカの街並みに 恐竜が出現する! というのは、ありそうで、 なかったパターンなのです。 なんで80年代の舞台設定なんだろう? 何か「懐かしい」なあ、と それを考えながら、ずっと見ていきます。 郊外の住宅街の街並み。 子供たちが自転車に乗って走り回るシーンは 『E.T.』を思い出します。 というか、『E.T.』そのものです。 恐竜がいつ現れるのか、というハラハラは 『ジョーズ』や『ジュラシック・パーク』 にも通じるし、音楽もスピルバーグ作品っぽい。 ということで、 スピルバーグ作品へのオマージュ、 というか「リスペクト」が満載なのです。 長女がカール・セーガンの「コスモス」 に傾倒するエピソードや、 人物の服装などから1980年代前半 だろう・・・と予想できますが、 一体、何年が舞台なのだろう? と思って見ていると、 最後の方で舞台設定が「1982年」と明かされます! なななんと・・・ それってスピルバーグ監督の『E.T.』の 公開年じゃないですか。 『E.T.』っぽい、じゃなくて確信犯ですね。 『E.T.』へのリスペクト。 そういえば、『E.T.』では両親が離婚して、 父親が不在となり、非常に寂しい思いをしていた。 そんな、エリオット少年が、ETと出会い、 友情を育む話。 本作では、離婚寸前の夫婦が、 今回の事件を通して、どう変わるのか? というのが、一つの見所。 家族愛、家族の助け合い。 家族関係の修復。 思春期の多感な心理。 夢の実現。 「下手(べた)なハリウッド映画」 と言えばそれまですが、 ある意味、それらは「普遍的」なテーマ なのです。 「家族写真」をアップでうつすシーンが、 何ヶ所かありますが、 それも凝縮した「家族愛」の描写と見えます。 最近は展開が早く、 アクションがド派手な作品が主流。 アクション映画、パニック映画で 「家族関係の大切さ」をじっくり描く というのは、ほとんどみかけなくなったような・・・。 『オークストリートの異変』は、 ありそうでない作品なのです。 失って、はじめてわかる大切さ。 パートナーの愛情も、 失って、はじめてわかる大切さ。 失う前に気付きたい。 ラストシーンにはも、涙があふれます。 本作のもう一つの「問い」は、 「母親」イメージの薄いアン・ハサウェイを なぜ起用したか? これも、映画の序盤から気になっていたのですが、 ラストシーンで見事に説明されます。 『プラダを着た悪魔』で、 ジャーナリストとなり、「自分の本を出したい!」 という夢をもっていた「アンディ」。 アン・ハサウェイの代表作と 見事に重なるのです。 家族だけではなく、女性としての自立というテーマ。 今では当たり前ですが、 米国で女性の社会進出、女性の自立が叫ばれ、 法制化されたのが1980年代なのです。 「問い」を立てて映画を見ると、 映画の理解が深まり、 より映画を楽しむことができるのです。 #オークストリートの異変 ##映画 ##樺沢映画#
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NHK Eテレ #沼にハマってきいてみた# 【特別編 平和について考えてみん? 】 ご視聴くださったみなさま、ありがとうございました👀 番組で紹介された、広島に原爆が投下される前の “カラー化写真” その活動を行う庭田杏珠さんにリポーターとして取材をしにいきました! 被爆関係者となられる大木久美子さんにお越しいただき、伺ったお話もとても貴重でそのようなお話をしてくださったことに大感謝でした。 わたし自身も初めて放送をみてロケを思い出し… 庭田さんに出会えてよかった。 改めてそう思うとともに この番組を作り上げたみなさま、この日この時間見てくださった方 みんなが、平和の事を思っていたと思うと かけがえのない時間に自分も関わらせていただけたことを心から感謝いたしました。 スタジオの野田さん、サーヤさんのコメントもとても新鮮でまっすぐなコメントで広島人としても嬉しい言葉の数々でした。 わたしのだいすきな広島は、美しい街です。 それから、広島を代表する漫画家である こうの史代 先生の代表作である「夕凪の街 桜の国」の舞台で主演をさせていただいたときの映像まで紹介していただき、嬉しかったです🙏✨ 伝承者の方のお言葉にもありましたが、私たちが学ばせてもらった「広島」を自分の中だけでとどめることなく、次に伝えることの大切さを感じていて、こういった舞台作品に携わることや庭田さんの活動をわたしなりの関わり方で応援していくこと、とにかくわたしにできる事全てでこれからも伝え続けていきたいです。 有意義なロケとなりました。 ありがとうございました。 NHK ONEでも同時&見逃し配信があります! 是非ともご覧ください! #沼ハマ# #NHKEテレ# #庭田杏珠# さん #西脇彩華# #ちゃあぽん#
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LLMにおけるハルシネーションは、大きく真偽接地問題と汎化の問題から生じていると整理できる。 真偽接地問題とは、生成した命題の真偽を外界の事実とどのように結びつけるかという問題である。なお、真偽接地問題はここで用いる私の造語である。 言語的なもっともらしさと、外界における命題の真偽は異なる。しかし、通常の言語モデルは主として言語分布を学習しており、この二つを直接区別するようには学習されていない。 これと関連する概念として、記号接地問題がある。記号接地問題とは、記号の意味を外界にどのように結びつけるかという問題である。例えば「りんごは赤い」という文の意味は、単なる「りんご」「赤い」という記号同士の関係だけで決まるのではなく、それらが実世界の対象や知覚とどのように対応しているかによって定まる。 これに対して、ここでいう真偽接地問題は、ある命題の真偽を外界の事実にどう結びつけるかという問題である。例えば、ある会社の代表者として無関係な人物を挙げたり、存在しない製品名を生成したりする場合、その出力は単語列としてはもっともらしくても、外界の事実とは対応していない。 概念的には、 p(true | 命題, 外界) を推定できるかどうかの問題と捉えることができる。 もう一つは、汎化、あるいは平滑化の問題である。言語モデルは有限の訓練データから学習するため、訓練中に観測していない系列に対しても適切に確率を割り当て、汎化する必要がある。 従来の言語モデルでも、一度も学習中に観測していない単語列に確率0を与えてしまうことは大きな問題だった。そのため、頻度ディスカウントや平滑化によって、既観測系列に割り当てられた確率の一部を未観測系列へ移していた。 ニューラル言語モデルは、分散表現による汎化によって、この平滑化問題を驚くほど自然に解決した。訓練中に一度も見ていない単語列であっても、その意味や文脈が既知のものと似ていれば、もっともらしい確率を割り当てることができる。 しかし、この強力な汎化能力は、事実を扱う場合には副作用を持つ。正解が一意に定まる事実についても、観測していない誤った候補に確率を与えてしまうからである。汎化する能力そのものが、ハルシネーションの原因にもなりうる。 さらに、この二つの問題は独立というより、相互に関係している。真偽が十分に接地されていないために正しい候補を識別できず、その不確実性の中で平滑化・汎化が働くことで、もっともらしい誤った候補にも確率が乗る。 真偽接地問題については、学習時に言語表現と外界の状態や検証可能な事実との対応を明示的に与えることで、ある程度解決できる可能性がある。 ただし、外界そのものの定義も単純ではない。現実世界だけでなく、あるゲーム世界、ある人物が信じている世界など、命題の真偽は前提とする世界や文脈によって変わりうる。この点まで含めて、どの世界に対する真偽なのかを接地する必要がある。 一方、汎化の問題も本質的にどこまで解決できるかは分からない。未観測例への汎化は、有限データから学習するために不可欠である。そのため、未知の対象にも確率を与えるという性質そのものをなくすことはできない。 必要なのは、汎化に任せる領域と、厳密な制約や構造化された情報によって扱う領域を組み合わせることだろう。 特にロングテールの情報、すなわち学習中に一度から数回しか観測されない事実を扱う場合、汎化だけによって高い網羅性とほぼ完全な正確性を同時に実現することは難しい。この領域では、ある程度の誤りを受け入れるのか、それとも外部知識・検証器を利用して回答範囲を制限するのか、という選択が必要になる。
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「私が成吉思汗について一番書きたいと思ったことは、成吉思汗のあの底知れぬ程大きい征服欲が一体どこから来たかという秘密である」。井上靖は本書について、そう書き残している。歴史小説とは何か。史実とフィクションはどこで手を結び、どこで裂けるのか。『蒼き狼』は、その問いを日本文学史に刻みつけた作品だ。 物語の核にあるのは、テムジン、のちのチンギス・カンの出生の影である。彼の母・ホエルンは他部族から掠奪されてきた女性だった。テムジン自身、自分がほんとうに父イェスゲイの血を継いでいるのか、確信が持てない。だからこそ彼は、モンゴルの伝承にうたわれる蒼き狼の末裔であることを渇望し、血の証明の代わりに行為の証明を、つまり征服を積み重ねていく。井上はそう描いた。 ここでモンゴルの神話に触れたい。モンゴル最古の歴史書『元朝秘史』は、天の命を受けて生まれた蒼き狼と、その妻である白い牝鹿が大きな湖を渡ってきたという起源神話から始まる。蒼き狼と白い牝鹿を祖とするこの伝承は、モンゴル民族の誇りの源泉だった。また、掠奪婚は当時の草原では珍しいものではなく、女性をめぐる部族間の争奪が同盟と復讐の連鎖を生む社会の力学そのものだった。テムジンの母もテムジンの妻ボルテも、掠奪を経験している。井上はこの史実の骨格の上に「自分は何者か」という近代的な自己証明の主題を接ぎ木した。そして、この接ぎ木こそが日本文学史に残る論争を呼んだ。 1961年、大岡昇平が「群像」の文芸時評でこの作品を痛烈に批判した。大岡の言い分はこうだ。成吉思汗が出生の秘密に悩み、蒼き狼の伝承に霊感を受けて大征服を行ったという痕跡は史料のどこにもない。『元朝秘史』で家畜を害う獣として現れる狼を井上は都合よく読み替え、史料にない狼の原理を主人公に背負わせている。これが歴史小説と言えるのか、と。大岡は批判の結びにこう突きつける。「何よりまず歴史を知らねばならぬ。史実を探るだけではなく、史観を持たねばならない。この意味で、井上氏の文学は重大な転機にさしかかっているのである」。井上は自作について反論を書き、大岡はさらに再反論した。戦後文学を代表する二人が一冊の小説をめぐって真っ向からぶつかった。 ぼくはこの論争を、どちらが勝ったかで語りたくない。むしろ、小説家と批評家が全力で衝突したこの緊張そのものが日本の歴史小説を鍛えたのだと思う。争点は要するに、歴史小説はどこまで史実を離れてよいかという一点だった。史実に忠実なだけの物語は年表になる。史実を離れすぎた物語は歴史の衣装を借りた空想になる。その細い尾根を歩くのが歴史小説家の宿命だ。 大岡の批判は史学的にはおおむね正しい。今日のモンゴル史研究の水準から見ても、井上のチンギス像は史実から遠い。だが、それでもぼくは思う。井上は史料の裂け目に「人間の孤独」という光を差しこんだ。出自の不安を行為で埋めようとする人間の業。それは十三世紀の草原にではなく、いつの時代のどの人間の内にもある。自分が何者かを血統で証明できないから行為で証明しつづける。この構図は、身分や家柄が効力を失った近代人の姿そのものではないか。 ぼくらは誰も、生まれによっては何者でもない。だから業績で、実績で、フォロワー数で、自分を証明しつづける。井上が成吉思汗に託したのは、たぶん、近代人の終わりのない自己証明の苦しみだった。だからこの小説は、十三世紀の物語でありながら、読む者の現在に刺さる。 『蒼き狼』井上靖(新潮文庫、新潮社)
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先ほど、参議院の特別委員会で皇室典範改定案が可決されました。私は以下の反対討論を行いました(長文です)。 私は日本共産党を代表して、政府提出の皇室典範改定案に反対の討論を行います。 天皇の制度の議論は、憲法の条項と精神に基づいて行い、国民の合意と納得を得て進めていくべきものです。女性天皇、女系天皇を認めるべきという圧倒的な世論を無視して、3時間余りの質疑で採決することは許されません。 そもそも、日本国憲法第1条では、天皇の地位は「主権の存する国民の総意に基く」とされています。昨日の質疑で木原稔官房長官は、国民の理解はいまだ得られていないことを事実上認めました。国民の総意に反するやり方は、将来に大きな禍根を残すものです。 反対理由の第一は、男系男子の皇位継承に固執し、さらに強化することが、日本社会における女性差別を助長するからです。 官房長官は、本法案は日本社会における女性差別を助長することになるのではないかとの私の質問に、「女性差別とは関係ない」とごまかしました。しかし、女性というだけで「国民統合の象徴」の地位につけないとなれば、社会における女性差別を助長することになるのは明らかです。 政府は「男系男子での継承が、わが国の歴史と伝統」と繰り返しますが、この「歴史と伝統」は明治時代に作られたものです。1889年に制定された大日本帝国憲法は「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」として天皇主権を確立し、同時に旧皇室典範に「男系男子」継承を明文化したものです。 この間の議論で自民党が強調する「皇位の男系継承は2600年以上にわたる皇統の伝統」「今年は皇紀2686年」などというのは歴史の事実ではありません。明治時代に天皇を現人神と描き出すためにつくられた皇国神話そのものです。いまだにこうした歴史観に立って「男系男子継承」にしがみついていることは驚くべきことです。 戦後、日本国憲法は国民主権を確立し、皇国史観にもとづく天皇主権を明確に否定したのであります。天皇は主権の存する国民の総意に基づく象徴とされ、憲法第2条は、皇位を「世襲のもの」とし、戦前の「皇男子孫」による継承は削除されました。 この日本国憲法のもとで、多様な性をもつ人々によって構成されている日本国民の統合の「象徴」である天皇を、男性に限定する合理的理由はどこにもありません。 天皇の制度は、憲法の条項と精神に基づき、主権者・国民の総意のもとにおくことが、何よりも大切だと強調するものです。 反対理由の第二は、皇族の養子縁組を禁止する現行の皇室典範の規定を覆し、「旧11宮家」の男系男子を将来にわたって皇族の養子候補とし、養子の子の男子に皇位継承権を与えることにしたからです。 「旧11宮家」と、いまの天皇との共通の祖先は約600年前の室町時代まで遡ります。いまの天皇と36~38親等もの隔たりがある、ほとんど赤の他人に等しいとも言われる、遙か遠い血筋からの養子までもちだして、女性・女系天皇の道を閉ざし、「男系男子継承」に固執する政府の姿勢は、時代錯誤の男尊女卑そのものです。 私が質問で指摘したように養子は皇室の伝統になかったものです。 旧11宮家は、80年前、現典範11条1項の規定にもとづき、自らの意思で皇籍を離れた人々であり、その子孫は一般国民として生まれ育ってきた人たちです。旧宮家だからといって、特別な身分である皇族とすることは、憲法14条1項が禁止する「門地による差別」にも抵触します。さらに、将来にわたって皇族の養子候補に位置づけられた、旧宮家の男系男子の子孫とその家族を「準皇族」ともいうべき特殊な身分に置くものであり、これらの人々の人権を不当に制約することにつながりかねません。 さらに実際の養子縁組において、政治家などが縁組に関与し、天皇の制度の政治利用を引き起こすことが危惧されることを指摘しておきます。 反対理由の第三は、女性皇族とその子が天皇になる道を閉ざしながら、「皇族数の確保」のために皇室行事を担う要員たれと、結婚後も皇室に残ることを原則としているからです。 婚姻後の女性皇族に、住民基本台帳を適用しながら、国民としての権利を認めないというのは矛盾も甚だしいものです。女性皇族を都合良く扱おうというものにほかなりません。 しかも、配偶者や子に皇族の身分を与えないことは、徹底して女系天皇の芽をつもうという意図をあからさまに示すものです。 なお、昨日の質疑で官房長官は、女性皇族の配偶者や子は皇族にならないという本案は、家族との一体性との間で、整合性がないのではとの問いに、日本人と外国人の夫婦を例に挙げて、「そういう夫婦において、国籍や参政権、戸籍の有無等によって違いが生じるが、家族の一体性ということでは、不整合は生じていない」と答えました。この答弁は、選択的夫婦別姓を否定する際の「家族の一体性が失われる」という論拠を政府自身が否定したものであることも指摘しておきます。 反対理由の第四は、政府は今回の法案は「立法府の総意」にもとづくといいますが、昨日の質疑でも反対意見が相次ぐなど、「立法府の総意」なるものが完全に崩壊しているからです。 政府は、皇位継承の問題とは切り離した皇族数の確保策を議論するといいながら、法案提出の段階で、養子の子の男子が皇位継承資格を持つとする規定を突然盛りこみました。国会と国民を愚弄するものであり、断じて許されません。 政府は、「立法府の将来の検討を縛らない」などといいますが、女性天皇への道を完全に塞ぎ、男系男子のみによる皇位継承を固定化しようというのですから、将来のあり方まで縛ってしまうものにほかなりません。 以上、本法案は、日本国憲法の精神と条項に反し、「主権の存する国民の総意」に基くべき天皇の制度を根本から変質させることにつながるものです。 日本共産党は、断固反対し、廃案とすることを強く求め、反対討論とします。
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