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マビノギ:先生はとても悲しいデース。フェスピアダ10周しましたがレプラコーン君は開放素材以外何も落としませんでしたー。 あとついでにペルシウス装備素材も一つも出なかった。 #そういうところだぞ#
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昨日行った映画館の物販が上映中のトイ・ストーリー、キングダム、根強い人気のコナン合従軍よりも、まだ公開してないグッズも置いてない準備中ガラガラのちいかわスペースの方が大きかったの、そういうところだぞ。
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『パペットスンスン』をガチ批評します。 『パペットスンスン』はただの癒やし作品ではありません。これは、不器用な存在たちの生活を愛する作品です。 スンスンを批評する人間は、おそらく誰もいない。 だからこそ、ガチで語ります。 長文です。読みづらい方は動画でどうぞ。 正直に言います。 『パペットスンスン』は、何が面白いのか説明しづらい作品である。 大冒険があるわけではない。 泣かせにくる大きなストーリーがあるわけでもない。 敵と戦うわけでもない。 あらすじだけ聞いたら「で、何が面白いの」となる人もいるはずである。 しかし、気づいたら見てしまう。 気づいたら好きになっている。 そして気づいたら、 スンスンの何気ない一言や動きが、妙に頭に残っている。 この現象は、かなり不思議である。 『パペットスンスン』は、 パペットの国「トゥーホック」に住む6才の男の子・スンスンが、親友のノンノンや、おじいちゃんのゾンゾンたちと送る、何気ない日常を描いた作品である。 SNSで広がり、2025年にはフジテレビ系『めざましテレビ』内でショートムービーとしての放送も始まった。 しかし私は、 この作品を単なる癒やし系キャラクターコンテンツだとは思っていない。 『パペットスンスン』は、 現代人の不器用さを、かなり優しく描いている作品である。 スンスンは、すごく不器用である。 ちょっとズレている。会話が噛み合わないこともある。 考えすぎる。変なところで悩む。 それでも本人はいたって真面目。 ここが面白い。 普通のキャラクター作品は、 キャラクターの魅力を分かりやすく大きく見せる。 すごく優しい。すごく面白い。すごく強い。 しかしスンスンは違う。 特別ではない。 むしろ、どこにでもいそうな不器用な存在である。 だから見ていて安心する。 そして、少しだけ胸が痛くなる。 例えばスンスンたちの会話。 ものすごく大きな事件が起きるわけではない。 糸でんわで遊ぶ。ありがとうを伝えようとする。 秘密基地にいる。キャベツ畑にいる。 そういう、本当に小さな出来事ばかりである。 しかし、その小ささがいい。 現実の人間関係も、実はそういうものの積み重ねだからである。 言葉にできない違和感。ちょっとした気まずさ。 妙な間。変な勘違い。 相手を傷つけたいわけではないのに、うまく伝わらない感じ。 『パペットスンスン』には、そういう日常の空気がある。 そして私は、 この作品最大の魅力は「誰も悪くない」ところだと思っている。 最近の作品には、敵がいる。悪役がいる。対立がある。 しかしスンスンの世界には、基本的にそれがない。 誰かが強い悪意を持っているわけではない。 ただ少し不器用な存在たちが、 少しずつ噛み合ったり、噛み合わなかったりしている。 しかし現実は、本当はこちらの方が多い。 人間関係が苦しくなるときは、 必ずしも悪人がいるからではない。 お互い悪くないのに、うまく言葉が届かない。 相手の気持ちが分からない。 自分の気持ちもうまく説明できない。 そういうズレが積み重なって、少しだけ寂しくなる。 『パペットスンスン』は、その寂しさを責めない作品である。 そこが本当に優しい。 ただし、優しいだけではない。 この作品を見ていると、 「人と一緒に生きるって難しいな」と思う。 しかし同時に、 「それでも誰かと関わるのって悪くないな」とも思う。 ここが『パペットスンスン』のすごいところである。 もちろん弱点もある。 正直、人を選ぶ作品である。 ドラマチックな展開を求める人、 分かりやすい笑いを求める人、 物語の起伏を求める人には、かなり退屈に見えるはずである。何も起きないと感じる人もいる。 しかし逆に言えば、 この作品を好きになる人は、 日常の小さな感情を大事にする人である。 大きな感動ではなく、小さな違和感や、ちょっとした優しさに反応できる人。 そういう人に、この作品は深く刺さる。 だから私は『パペットスンスン』を、 ただの癒やし作品だとは思っていない。 これは、不器用な存在たちの生活を愛する作品である。 派手ではない。大きな感動もない。 それでも気づけば、ずっと見てしまう。 それはきっと、 スンスンの中に少しだけ自分を見ているからである。 私たちはスンスンを見ているようで、本当は、 自分自身の不器用さや、言葉にできない寂しさを見ているのかもしれない。 あなたは『パペットスンスン』のどこが好きですか。 コメントで教えてください。
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INTPの魅力は、一見無愛想そうなのに、仲良くなるとぶっとんだユーモアをいうところ。 INTPの魅力を知る人は、その強い個性に惹かれて沼っていく。 知る人ぞ知る隠れ名店が、INTP。
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コスプレ/cosplay ウマ娘 カレンチャン 撮影の合間にウィッグ直してるところでしたが、起きたてでむにゃむにゃしてるように見えたので🥹❤️ こういう意図せずそう見えてくれた写真ってのも良いよね…😌✨ ※サムネ見切れてるのでタップ推奨だぞ 📸:@tenpula
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今日で日本コロムビアグループに来て5ヶ月になります。 2004年に独立してから、ずっとフリーランスとして生きてきた自分が、44歳で初めて会社員になりました。環境も、立場も、背負うものも大きく変わった5ヶ月でした。 生成AIという大きな変化の真ん中で、新しい技術で何ができるか、だけではなく、この技術を使って何を世の中に残せるのか、ずっとそれを考えて走ってきた気がします。 COLOTEKを通じて出会った、たくさんの才能。企業やアーティストとの新しいクリエイティブ。イベントや登壇で出会った人たち。そして、まだ名前もついていない企画や作品たち。 この5ヶ月で本当に多くの人と出会いました。同時にAIクリエイティブの世界には、まだ世の中に見つかっていない才能がたくさんいることを改めて実感しました。 技術はものすごいスピードで進化しています。昨日できなかったことが今日できるようになる。半年後には、今の常識さえ変わっているでしょう。 でも、どれだけ技術が進化しても、最後に人の心を動かすのは「誰が、何を想って創ったのか」だと思っています。だから、自分は技術だけを追いかけるのではなく、その向こう側にいる創り手を大事にする。 才能があるのに、まだ知られていない人。圧倒的な世界観を持っているのに、届ける場所がない人。AIという新しい道具を手にして、これから何者かになろうとしている人。 そんな原石たちが、原石のままの個性を失わず、もっと大きな舞台で輝ける場所をつくりたい。その想いが少しずつ形になってきました。 完成された人だけが主役ではありません。荒削りでもいい。尖っていていい。誰にも理解されていなくてもいい。そこに、その人にしかない何かがあるなら、それを信じたい。 ここだけの話。 人と喋ることが、本当は得意ではありません。大勢の人の前に立つことも、今でも決して好きではありません。 もっと社交的で、もっと器用で、もっとプロデューサーらしい人間だったら楽にできることもたくさんあるのかもしれません。 でも最近は、こんな人間だからこそ、できることもあると思うようになりました。うまく輪の中に入れない人の気持ちが分かる。自分の作品を見せることが怖い人の気持ちも分かる。才能があるのに、自信を持てない人。言葉にするのが苦手な人。自分の居場所がまだ見つかっていない人。そういう創り手を見つけたとき、たぶん放っておけない。 会社員としては、まだ5ヶ月。 分からないことも多いし、正解ではない動き方をしていることもあると思います。それでも、会社の中にいるからこそできることと、22年間フリーランスの現場で生きてきた自分だからできること。その両方を使って、今までにない場所をつくりたいと思っています。 そのためなら、苦手なこともやる。人前にも立つ。会社の中でも外でも、必要なところに飛び込んでいく。そして自分自身も、創ることだけは絶対にやめない。たぶん、それが自分にできる役割なんだと思っています。 長文失礼しました。来月も全力で走り続けます! 今日は早めに布団の中に入るぞと、、お疲れ様でした!!
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人間の学校というものは、どうにも奇妙な場所である。算数では答えを間違えるなと教え、国語では相手の気持ちを考えよと教え、道徳では人を大切にせよと教える。ところが、その同じ学校で、子どもが「一緒に着替えたくない」と小さな声を上げても、教室が足りぬ、時間が足りぬ、先生が足りぬと言って、その声を後回しにしてしまうことがある。小学校の体育や水泳の授業で、男女が同じ空間で着替えている学校がまだ少なくないという。 国は男女別の更衣スペースを求め、プライベートゾーンを大切にする教育も始まっている。 それなのに現場では、低学年だから、昔からそうだから、場所がないから、という理由で、子どもの恥ずかしさが軽く扱われている。 だが、恥ずかしいという感情は、わがままではない。 それは、自分の身体は自分のものである、という最初の境界線である。 ここから先は見られたくない。 ここから先は踏み込まれたくない。 その感覚を大切にされて初めて、子どもは他人の境界線も大切にできるようになる。 大人はよく言う。 「子どもだから気にしない」 「低学年ならまだ大丈夫」 しかし、それは大人が気にしていないだけである。 子どもは言葉にできぬだけで、ちゃんと見られることを知っている。 比べられることを知っている。 嫌だと言えば空気を悪くするかもしれないと、黙ることまで覚えてしまう。 恐ろしいのは、着替えそのものではない。嫌だと言えない環境に慣れさせてしまうことである。 もちろん学校にも事情はある。 空き教室は少ない。時間割は詰まっている。 教員はすでに限界まで働いている。 だが、だからこそこれは個々の先生の努力だけに押しつけてはいけない。自治体が実態を把握し、学校が仕切りやカーテンや時間差を工夫し、保護者もまた「それくらい」と流さず、子どもの尊厳を守る仕組みに変えねばならぬ。 更衣室がないなら、知恵を出す。 時間がないなら、優先順位を変える。 教員が足りないなら、制度として支える。 子どもの身体の安心は、余った時間で配慮するものではない。  教育の土台である。 学校とは、ただ知識を教える場所ではない。 自分の身体を大切にしていいのだと、子どもが最初に社会から教わる場所でもある。 その場所で「嫌だ」という声が聞き流されるなら、どれほど立派な教科書を並べても、教育はどこかでほころびている。
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半導体覇権、読了。非常に面白かった。 半導体の技術そのものよりも、NVIDIA、TSMC、Samsung、Intel、ASML、中国企業などが、どういう経緯で今の地位を築き、業界の中でどんな役割を担っているのかがよく分かる本。 技術的な説明は必要最低限で、とても読みやすい。半導体の技術書で挫折した人でも、業界全体の構造や企業同士の関係をつかみやすいと思う。 特におもしろかったのは、半導体企業の「キャラ」や立ち位置が見えてくるところ。 AI時代到来を早期に見抜き世界一の企業になったNVIDIA、台湾の奇跡といわれる製造に徹して世界中の企業を支えるTSMC、メモリと製造の両方で巨大投資を続けるSamsungの政治に翻弄される苦悩、EUの希望・最先端半導体に不可欠なEUV露光装置を握るオランダのASML、復権を狙う日本のラピダス。 なんで強いのか、何を背負って戦っているのか、業界の中でどこに位置しているのか、その背景を歴史とともにわかりやすく説明してくれる。 中国の躍進も印象的。 かつて東芝やソニー、キヤノンなどの技術者がSamsungへ移り、韓国の半導体産業の成長を支えた。 ところが今は、Samsungの技術者が中国DRAM大手のCXMTなどに数倍の年収で引き抜かれている。そうやって技術が移転していく。 ワイの知り合いでも昔サムスンに行った人はいる。数年だけ超高待遇で技術吸収したら基本はポイだが、それわかって行く。十分ペイするし。ガチ優秀な人はそのまま幹部にもなる。 そして、やっぱり日本の凋落は残念な気持ちになる。 この本を読んでわかるのは、半導体覇権は一企業だけでは到底無理で、国家規模の戦略と長期投資が不可欠だったということ。 台湾、韓国、中国は、半導体を国家の競争力や安全保障に直結する産業として扱い、採算が悪い時期も含めて投資を続けてきた。 一方、日本はバブル崩壊やリーマンショック後に企業の体力が落ち、半導体も一企業の不採算事業として整理されていった。国家として産業を守り育てる視点がほぼなく、そりゃ負けるよなと。 で、今になってTSMCやマイクロンに兆単位の補助金を注いでる。う〜ん、投資下手すぎる。 ラピダスには頑張ってほしい。めちゃくちゃ応援するぞ。
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2026年6月15日夜に #コトリ会議『##この上のない下水筒』を観ました。会場はアトリエ春風舎。コトリ会議はまだこまばアゴラ劇場があったころから何度も観ている。##上のない下# ネタバレがあります。 場内に入ると立てこまれた舞台美術。古い建物の一室。正面の部屋の奥にはもう一部屋あるようだ。上手側がその部屋の出入り口になっていることがやがて知れる。 男の首吊りのシーンから物語が始まる。そのそばに立っている女性との会話が妙に心に残る。 その彼、朝倉くんのお通夜に集まる人たち。過去の同級生らしい。遺体は奥の部屋に安置されているという。正面の部屋には仮の朝倉くんが座っている。その状況がよくわからなくて、でも彼らの時間やそのなかでの会話やエピソードが重なるうちに彼らの今も、その記憶も、仮の朝倉くんの存在を通して浮かんでくる。様々な出来事の歪み方、トイレの話にしても、タケコプターのようなウィッグにしてもそう。ぞうさん銀行の300万円も、なにより雨水しか飲まない彼が持つ水筒も、その寓意を受け取り得ないままに自分のいくつかの記憶のテイストと重なっている。観ている顛末があって、その一方で出来事が舞台の見えない部分を巡り、過去の記憶の感覚となり、それぞれの今として訪れることへの感慨に染められている。 朝倉くん(仮)の居住まいを作家が演じていることで観る側の無意識に形作られる視座があって助けられる。照明にも鋭い切れをもったところがいくつかあり、音の差し入れ方が生むニュアンスがあることにも引き込まれる。俳優たちの醸す異なったトーンでの実存感が朝倉くんと彼らの過去の日常の膨らみになっているのも良い。 そうして終演後は、暫くそのつかみ切れないものへの得心や訪れる行き場のようなものに心を捉えられていた。登場人物たちの間の距離が淡々と愛想なく生々しく感じられたし、その彼らの想いが理解しえず、でも理解できるような気がした。それは言葉をつくしても埋められない、演劇だからこそ表現しうるそれぞれの学生時代から滴る今のありようにも思えた。
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