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Y Combinatorが7月25/ 26日にサンフランシスコでStartup School 2026」を開催しました。 ゴールデンステート・ウォリアーズの本拠地であるNBAアリーナを丸ごと貸し切りました。応募は3万人超で、選ばれた参加者は約6,000人。昨年の3倍の規模です。ベイエリア以外から来る人には渡航費の支援も出ていました。 登壇者は、NVIDIAのジェンスン・ファン、OpenAIのサム・アルトマン、MetaのAlexandr Wang、AnthropicのBoris Cherny、GoogleのJeff Dean、StripeのPatrick Collison、WaymoのDmitri Dolgovなど。チップ・モデル・データ・クラウド・開発ツールという各レイヤーの当事者が一つの場所に集まった形です。 ジェンスン・ファン(NVIDIA) 「会社を始めるのに、いまが史上最高のタイミングだ。この場にいる全員が羨ましい」。NVIDIAの初期の技術的な賭けが外れたこと、教科書で独学して軌道修正したことを語り、現実を直視することと、一日ずつ乗り切る粘り強さが何より重要だと繰り返していました。 サム・アルトマン(OpenAI) 2005年、Looptの最初のバージョンを書くのに3ヶ月かけた。今年、同じ量の仕事をコーディングエージェントが7分で出した。この圧縮こそが、目の前の参加者が過去のどの世代よりも大きな会社をつくれると彼が考える根拠だ、と。 「スタートアップは経済が停滞するのを防ぐ存在だ」「今日つくられるスタートアップは、過去のものよりも価値のあるものになる」「確信があって、かつ世間の常識が間違っていると思えることを見つけ、辛抱強く続けろ」。 推論需要については「今後何年も、世界の需要は年10倍で伸びると思う」と話していました。 パトリック・コリソン(Stripe) Stripe上で新しく立ち上がるビジネスの数が前年から増えていて、その伸び幅はStripeが記録してきた中で最大。2019年から2020年の変化より大きいそうです。しかも中央値の新規ビジネスの成績も去年より良い。数が増えただけではない、と。彼はAIが一部のラボに価値を集中させる力になると心配していたが、実際に起きているのは逆で、勝者が何千と生まれる分散的な世界を予想するようになったとも語っていました。 学生への助言として「知識を自分の頭に入れておくこと(cognitive L1 cache)」の価値を挙げていたのも印象的でした。エージェントに調べさせるより、自分の頭の中のほうが思考の往復回数が多い、と。 参加者への特典も手厚く、OpenAI、Anthropic、Cursor、xAI、AWS、Azureから合計25,000ドル超のコンピュートクレジット。Anthropicは全員に月200ドルのClaude Maxを6ヶ月分、Metaは1,000ドル分のクレジットを配りました。 一方で批判もありました。「最近のYC Startup Schoolはメガチャーチっぽい」というミームが広がり、あるVCは「金だけを崇拝する人たちのためのメガチャーチ」と評しています。「YCのブランドはステータス目当ての人を弾くようにできていたはずなのに、群衆が納屋に押し寄せている感じがする。スタジアムサイズの納屋に」という声も。これに対してYCのGPは「我々のゴールは希少性をつくることではなかった。アリーナに立つべき人、立てる人はもっとたくさんいる。だからアリーナを借りた」と応じています。 主要セッションの映像はYCが公開しています。是非見てみてください!
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【長文】【3行以上読めない人はミュートしな】昨日か一昨日?私の離婚発言が話題になってたらしいのですが(フランス戻る飛行機の中で知らなかった) まず、メディアは視聴者を「不倫や離婚ネタなら反応するだろ」って思ってる部分があるし、後あんまり頭良くない人もこの手の話ならコメントできるので、結果バズりやすいみたいな側面があります。 上記の前提を共有した上で、スタジオに来てくださいと依頼されて出た私がいうのもなんですが、ではどう対応すれば良いのか書いておきますね。 ⭕️離婚ネタくだらね&どうせ宣伝だろ派閥の方 →スルーするにつきます!SNSの特性上、いくら自分は正当な批判を展開していると思っていても、そこから先のコメントやRPで広がっていけば、結局話題になるのを手助けするだけで、意図とは真逆の結果になります。ひろゆきが良く言ってる「肉屋を応援する豚」ってやつです。 私も見ず知らずの他人の不倫や離婚とかどうでも良い派でして、そういうのに反応&コメントする時間取るの無駄だと思ってます。そんなの書いてる暇があったら5分プランクすると良いです。腹も引っ込みますよ。 ⭕️家でやれよ&とっとと離婚しろ派閥の方 →ひろゆきに言ってやってください。私も家で話し合いができる関係がベストですのでぜひご協力お願いします🙏 ⭕️ひろゆきもしくは泉さんが好き🥰新党も気になる👀派閥の方 →2027年の4月に統一地方選というのがあって、東京では 中央区、文京区、台東区、墨田区、大田区、世田谷区、渋谷区、豊島区、北区、板橋区、江戸川区、(目黒区) が区長選をします。 国会議員が1人当選してもすぐに人々の生活は変わらないけれど、首長が変われば、その町に住む人々の生活が変化するというのが今回の狙いのようです。なので2人が気になってて、かつ上記の街にお住まいの方、もう少し生活が楽になったらいいなぁと思う方「◯◯区住みだけど、こんなのあったらいいな、便利だな」をコメントに書いてみてください。少なくとも、私の離婚ニュースにコメントするより100倍有益なこと間違い無しです。 ちなみに、当人(ひろ&泉)同士は仲が良いにも関わらず、「一緒は嫌だ!」というコメントもちらほら見るのが私視点からは不思議なところです。しかしそれは逆に考えると、たとえ支持層が違ってても両方の人にとって、結果良い政策を考えているんじゃないですかね。 ⭕️離婚とか興味無いし特に生活も困ってないよ!派閥の方 →それはよかった!じゃぁ私とどのルルルンシートマスクが好きか語り合いましょう。黄色のビタミンCのマスクが好きです! というわけで、なぜ離婚という言葉が出るほど嫌だったのかを話しているのがこちらの後半です。
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8月6日、原爆の日。 昨晩はエアコンの風が直接当たる位置に寝ていたせいか風が気になってなかなかうまく眠れず。今朝は7時半にアラームをかけていたものの起きるのが少し辛かった。 それでも今日は8月6日。8時15分に1分間の黙祷をするため体を起こした。 最近は毎日のように「今が戦前なのではないか」と思わされるようなニュースが飛び込んでくる。 着々と進められる憲法改正の議論。 戦争を「防衛」と言い換えた武器の輸出や訓練。 その武器が向けられる先には、いつもやわらかな人間の命がある。紛れもなく殺人に向けた準備なのに、「現実的に考えると」という顔をして政治家たちが着々とコマを進めている。つよい恐怖と違和感を覚える。 私は一市民としてできる限り抗いたい。 日常の時間をやりくりして、たとえそれまでの空気をぶった切るようであっても、「最近政治やばいよねえ」と周りの人に切り出してみること。時間が許す限りデモに参加すること、署名をすること。あと、自分で自分を冷笑しないこと。 母方の曾祖父は、パプアニューギニアに派遣され、戦後帰ってきたのは小さな石ころ一つだったという。 生前、祖母は夏に限らず一年中、何度も何度もその話をしてくれた。当時は素直に聴けないこともあったけれどいま振り返るとその物語はしっかりと私の中に受け継がれている。「語り継ぐ」は成功し私に残っている。 今日は家でしばらく作業をこなしたあと、8月9日に控えた「岸本さとこ2期目スタート集会」に向けた準備。 ワークショップのグループ分け用紙を作るという地味な作業だけれど無事に150人分の紙が完成!当日の搬出荷物に詰め込んだ。 その後はモンドジェラートさんへ。 「#かぼちゃと語ろう能登のこと」という企画のかぼちゃのジェラートをいただいた。ダブルにしてもう一方はレモンマスカルポーネ。ジェラートになってもほくほく感残るかぼちゃ味を味わいながら、能登半島地震に改めて思いを馳せる。# 地震の直後、富山にあるパートナーの実家へ地震の片付け手伝いに行ったことなどを思い出す。あれから、日常を営みながら、連綿と能登に思いを寄せ、足を運び、支援を続けられている人たちに本当に頭が上がらない。 夕方、首相のスピーチを読むのが怖くて、先に広島市長の平和宣言全文を読んだ。 政治は究極、戦争をしないためにあると思っている。そうでしょう。 戦争をするために政治を利用する人たちが多すぎて、めまいがする昨今。 戦争をなんとか回避し続けるこの先100年の未来のために。後から「あのとき諦めずにやっておいてよかった」と思えること、今できるすべてをやろうと思う。 目をそらさず、為政者の言動を見届けていようと思う。
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「言われた通りにやりました」で評価されるのは学生までです。仕事ができる人は、上司の指示の余白を埋める。 ①なぜ今この作業が必要か問う ②上司の期待値を120%で超えるための条件を確認する ③何がリスクになるか事前に共有する 若手社員の半数が指示が曖昧だと悩むが、曖昧さは自分の思考で埋めるものです。上司を上手く使うことは、自分の頭で考える第一歩です。
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「いい話だけど出版は無理。書店さんに並べる棚がない」 と何回か言われたことがあります。 「ジャンルがない小説」はそもそも出版が難しい。 『ファルティマの夜想曲』 二つの月がある、架空の港街を舞台にした24歳の娼婦が主役の物語。 企画会議を通したければ、 「主役を10代、娼婦もなし」「娼婦が書きたいなら、実在の歴史にはめるか、現代の風俗店に問題提起を入れ込む」 等しないと無理。 私自身商業作家として、普段は「棚はどこ」「ターゲット」「売りは何か?」ということを当然考えるし、編集さんに「こういうものを書いてほしい」と言われば120%応えたいと努力します。 なにより作家買いをしてくれる読者さんの期待を裏切りたくはない。 葉山透に求められているのは、ハラハラドキドキのサスペンス、ミステリ、SFを用いたギミック、娯楽映画のような爽快感だろうと思うから。 でも「ファルティマ」に限って言えばこの形を変えたくはなかった。 棚がないのはわかっていても、たくさん売れてメディアミックスなんて絶対ならない物語だとしても、変えたくなかった。 本読みの方なら理解していただけると思うのですが、読者として「この小説、メジャーにはならないけど自分はめっちゃ好き」という作品ありますよね? わかりやすくてキャッチーで王道は正義。私も普段はそういう小説を書きたくて書いてます。大好きです。 しかしファルティマは、好きな人にはぶっ刺さるけど、刺さる人はごくわずかだろう、むしろ嫌いという人もいるだろう、でも書きたかった。 いえ、正直に言いましょう。 この物語は運よく商業で出たけれど、商業用にプロットを練ったものではありません。 友人、ではない。知人というのも憚られる。そんな遠い関係の人でしたが、吉原で働いている人がいました。 貧乏のどん底で育ち、頭がいいのに中卒。会社ではゴミのように扱われ、仕事をやめ吉原で働き始めました。 貧しい母子家庭に育った彼女は、このお金で母親にまともな暮らしをさせてあげられる、自分も生まれて初めて欲しいものを好きに買えた、私は今の生活に満足している、誰にも同情なんかされたくない、と言いました。そう言う彼女に、私は何も言えませんでした。でも、やっぱり、いけなくないけどよくもないだろう、という気持ちがありました。友人として何か言えるほど近くもない。そこで私がしたことは物語を書くことでした。なんでそんなことをしたのか、自分でもよくわからない。 さらに、吉原の闇を書くわけでもなく、ファンタジー世界観の美しい月と花と潮の香りに満ちた綺麗な夜の話を書いた。頭の中にだけあった一大冒険譚の中の脇役の娼婦を主人公にして、物語を書き始めた。 我ながら謎すぎる。   しかし、公募やコンテストに出すことを考えずに書いたこの物語は、私の作家としての本質と、美点と、同時に限界を顕現しています。 酷い現実を直視して言語化したいのなら私は新聞と評論でいいだろうと思います。少なくとも読者としての私は。 フィクションには、美しいものや愛や夢や希望や信頼が書いてあってほしい。たとえ綺麗事でも「浅い」と言われようとも。私が好きなのは楽しくてワクワクする小説で、現実で死ぬほど落ち込んでいる時、読みたいのは明るい綺麗な小説だったから。 そして恋も嫉妬も友情も信頼も、誰かを想う気持ちはそんなに簡単に名前をつけられない――そんな感情のグラデーションと、読後には明るさと希望と少しの寂しさが残る物語になりました。 さて結局、その人に小説を見せたのか。答えは否です。書き上げた頃には連絡先も解らなくなり、そもそもその人を説得しようとか烏滸がましいことを考えていたわけでもない。ただ、人生の不公平、世の中の矛盾に対し、私は物語を書いた。それも「綺麗事」の物語を書いた。それがすべてで、自己満足の極みです。 でも「たくさん読まれることを狙って考え抜いた小説が売れること」が正義であるように「究極の自己満足」もまた創作の正義でありましょう。   当時の文庫本の 後書きにこう書きました。 「どうしようもなく寂しくて、誰かに電話をしようと アドレス帳を開く。でも結局ボタンをそのままそっと携帯を閉じる。そんな夜に読んでほしい」   いつもの葉山透からはかけ離れた ポエティックな文章⋯。 でも 誰にだってそんな夜は あると そんな夜にこそ横にいて欲しい物語があると、そんな気持ちで書きました。 と、文字数もギリギリになってきたので、まとめに入ると、20年前に絶版になってしまった物語を、同人誌で復刊しました。 「この世界の何処かにいる誰か」に届くことを願って。20年越しに書いた続編「ヴィオレッタ」と一緒に。 文庫本 2冊分に、一人の作家の20年が詰まっています。 通販もしています。 リプ欄にのせておきます。   一人でも多くのやるせない夜を抱えた方に届きますように。
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「いい話だけど出版は無理。書店さんに並べる棚がない」 と何回か言われたことがあります。 「ジャンルがない小説」はそもそも出版が難しい。 『ファルティマの夜想曲』 二つの月がある、架空の港街を舞台にした24歳の娼婦が主役の物語。 企画会議を通したければ、 「主役を10代、娼婦もなし」「娼婦が書きたいなら、実在の歴史にあてはめるか、現代の風俗店にし時代的な問題提起を入れ込む」 等しないと無理。 私自身商業作家として、普段はプロットを作る時「棚はどこ」「ターゲット」「売りは何か?」ということを当然考えるし、編集さんに「こういうものを書いてほしい」と言われば120%応えたいと努力します。 なにより作家買いをしてくれる読者さんの期待を裏切りたくはない。 葉山透に求められているのは、ハラハラドキドキのサスペンス、ミステリ、SFを用いたギミック、娯楽映画のような爽快感だろうと思うから。 でも「ファルティマ」に限って言えばこの形を変えたくはなかった。 棚がないのはわかっていても、たくさん売れてメディアミックスなんて絶対ならない物語だとしても、変えたくなかった。 本読みの方なら理解していただけると思うのですが、読者として「この小説、メジャーにはならないけど自分はめっちゃ好き」という作品ありますよね? わかりやすくてキャッチーで王道は正義です。私も普段はそういう小説を書きたくて書いてます。大好きです。 しかしファルティマは、好きな人にはぶっ刺さるけど、刺さる人はごくわずかだろう、むしろ嫌いという人もいるだろう、でも書きたかった。 いえ、正直に言いましょう。 この物語は運よく商業で出たけれど、商業用にプロットを練ったものではありません。 友人、ではない。知人というのも憚られる。そんな遠い関係の人でしたが、吉原で働いている人がいました。 貧乏のどん底で育ち、頭がいいのに中卒。会社ではゴミのように扱われ、仕事をやめ吉原で働き始めました。 貧しい母子家庭に育った彼女は、このお金で母親にまともな暮らしをさせてあげられる、自分も生まれて初めて欲しいものを好きに買えた、今の生活に満足している、誰にも同情なんかされたくない、と言いました。そう言う彼女に、私は何も言えませんでした。でも、やっぱり、いけなくないけどよくもないだろう、という気持ちがありました。友人として何か言えるほど近くもない。そこで私がしたことは物語を書くことでした。なんでそんなことをしたのか、自分でもよくわからない。 さらに、吉原の闇を書くわけでもなく、ファンタジー世界観の美しい月と花と潮の香りに満ちた綺麗な夜の話を書いた。頭の中にだけあった一大冒険譚の中の脇役の娼婦を主人公にして、物語を書き始めた。 我ながら謎すぎる。   しかし、公募やコンテストに出すことを考えずに書いたこの物語は、私の作家としての本質と、美点と、同時に限界を顕現しています。 酷い現実を直視して言語化したいのなら私は新聞と評論でいいだろうと思います。少なくとも読者としての私は。 フィクションには、美しいものや愛や夢や希望や信頼が書いてあってほしい。たとえ綺麗事でも「浅い」と言われようとも。私が好きなのは楽しくてワクワクする小説で、現実で死ぬほど落ち込んでいる時、読みたいのは明るい綺麗な小説だったから。 そして恋も嫉妬も友情も信頼も、誰かを想う気持ちはそんなに簡単に名前をつけられない――そんな感情のグラデーションと、読後には明るさと希望と少しの寂しさが残る物語になりました。 さて結局、その人に小説を見せたのか。答えは否です。書き上げた頃には連絡先も解らなくなり、そもそもその人を説得しようとか烏滸がましいことを考えていたわけでもない。ただ、人生の不公平、世の中の矛盾に対し、私は物語を書いた。それも「綺麗事」の物語を書いた。それがすべてで、自己満足の極みです。 でも「たくさん読まれることを狙って考え抜いた小説が売れること」が正義であるように「究極の自己満足」もまた創作の正義でありましょう。 文学フリマ。 「自分が文学と信じるものを作り手が自ら売る」 商業のように「儲けを出さなければいけない」という前提はありません。書き手が負債を請け負う覚悟があればいい。 (同時に、商業で確立されている編集テクニック、装丁、営業広告、全国どこでも1冊から取り寄せできる流通と書店さんというものが、どれだけ洗練されていてありがたいものか実感します。このシステムを持続可能にするには、やはり売れなければいけないな、と) とまあ、文字数もギリギリになってきたので、まとめに入ると、細々と通販しているぶんを、文学フリマ大阪14にも持っていきます。 商業ベースにはのらなくても 「世界の何処かにいる誰か」に届けたい物語を、20年越しに書いた続編「ヴィオレッタ」と一緒に、一冊の同人誌にまとめて。
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「バリキャリやめて、結婚・出産した。」 「仕事より、子育てのほうが数倍ラク。」 「子育てには責任がない。謝れば済む。」 わたしに奢りにくるたびに、なぜか生まれたての『違う赤ん坊』を連れてくる、大阪の常連だ。 彼女は、彼女が大学生の頃からの古参フォロワーで、わたしのことを遠目に観察しながら、バリキャリの道へと進んだ。よく働いた。 彼女が当時、進学した高校はいわゆる""進学校""で、その友人たちは皆、わかりやすく言えば「結婚なんて」という価値観だった。 女も、男に頼らず生きていくんだ。経済的合理性。未来を見据えたキャリア・アップ。手に職を。 そして彼女もまた、まさか自分が20代のうちに結婚をし、こどもを複数人産んで育てているなんて、いちども考えなかった。 その後、SNSに現れた「不快な浮浪者」の発言(いまあなたも見ている、まさにこれ)を見ているうちに、結婚や子育ての現実的、妥協案的、あるいは合理的システムについて考えるようになる。 わたしが本当にしたかったことは、なんだろう? 高収入?キャリア? なんのため? 不自由なく生きるため? 男に抑圧されず自由に生きるため? しかし、そう考えることこそが、まさに抑圧的なのでは? わたしは、自由になろうと、させられているのでは? 彼女はひどく潔く、イノセントだったので、「若いうちにこどもを作り、たまにおいしい酒を飲んで、ぬくぬく家族と生きてたら幸せじゃね?」となった。兄弟の多い育ちが功を奏して、その想像は容易かった。あっけなく、答えは出せた。 そうして実際、驚くほどに潔く、すばやく結婚をし、子を産み、初めてわたしに奢りにやってきた。「結婚してよかった、こども産んでよかった!」と、いつも話す。 とんでもない事後報告である。知らんやつが知らんうちに知らん影響を受けて知らんことして知らん報告をしてきたわけである。 彼女に、ふたたび大阪で再会した。ふたたび、ちいさな赤子を抱えている。こないだ会った男の子は、もう2歳になったそうだ。 「寝てるね」 「はい、ラクなもんです。家事をして子をみるだけで生活ができる。より過ごしやすくするには、まわりに、家族やご近所に愛想良く振る舞っておけばいい。協力してもらえる。そういう意味では、仕事より、子育てのほうが数倍ラクですよ。わたしにとっては。」 「へぇ。具体的に、どんなとこが辛いの?」 「子育てには責任がない。」 「いやいや、さすがに、子育てにも責任あるやろ」 と笑いながら突っ込むと、 「いやいや、こどもなんて、基本わたしのことクソ好きなニコニコ上司ですよ。オムツ替えるのがちょっと遅れちゃっても、謝れば終わり。」 「ごめんね、きょうのご飯は唐揚げだよ、と言う。」 「そうです」 「でもね、仕事はそうはいかない。関係者各位にいくら頭をさげても、取り返しのつかない失態がたくさんある。そこらじゅうにです。わたしの子供は、そうですね。死ななければいい。」 と彼女は言った。 「子育ては、めちゃくちゃラクだし、めちゃくちゃ楽しいです。ツイッターには正反対の意見ばかりで、「結婚最高!」「子供最高!」なんて書いたら炎上しちゃいそうで、絶対に書けないですけどね。」 「ほんとうに幸福なひとは、幸福の瞬間にツイッターを開かない。」 「プロ奢が、ずっと人生なんてくだらない、くだらないことは自分勝手に楽しむしかない、ということを言っていて、良い意味で絶望できた。だからこどもを産めました。ありがとう」 「そっか。なんか感謝されてるのか、恨まれてるのか分かんないけど、それはよかったね。」 「うん!もうひとり、産んじゃおうかな!」 「じゃあ、また新しい成果物ができたら会いましょう。」 「いいですね、成果物!」 そういう勢いで、大阪の大きな商業ビルのカフェのエスカレーター前で別れた。まさに、それは「そういう勢い」と表現するのが相応しくて、ふたたび会うときにも、きっと「そういう勢い」でやってきて、「そういう勢い」で別れるのだろう、と思う。 ややこしいことを考えるとキリがない。というか、かろうじて考えることはできても、すっきりとした答えが出ない問題で、世界は覆われている。 こどもは幸せになるのだろうか?わたしはこどもを生むべきだろうか?そんなもの、だれにも分からない。分かる必要がない。 ただやったり、やらなかったりすればいい。しかし、やってみたほうが考えるヒントは増える。それだけのことなのだろう。 他者を人としてリスペクトする姿勢というものは、つまり、勝手にやれ、と言い切ることなのかもしれない。 生まれたな、じゃあ、あとは勝手にやれ。幸せになれ、不幸せになれ、自由になれ、不自由になれ。なんてひどいことだろう。 でも、なんてすてきなことでもあるんだろう。信頼の香りがする。 出産、それは、あまりに暴力的で、昨今の厳しいコンプライアンスに抵触しうる、極めて反社会的な行動にすら思える。でも、より正しいのはどっちだろう? いや、そう考えても分からない。だから、こう考える。よりくだらないのはどっちだろう?好きな方を選ぶしかない。信じた先で転んでも、タダでは起き上がらない、そう信じられるような道を、じぶんで選びとるしかない。
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最近、日中に8時間連続で働くという感覚がなくなってきた。 グローバルチーム所属なので日本の深夜にミーティングがある、というだけではない。スマホでもパソコンでも、何か思いついたときにエージェントへパッとお願いして、できたらレビューする。仕事がそういう形になってきた。 ---- 一方で、1〜2時間くらい集中して、自分の頭で考え続けないと作れないものもある。エージェントへお願いして進められる仕事が増えるほど、こういうディープワークで何を出せるかが、その人のスキルや評価に直結するようになる気がする。 なので、ずっと仕事をしているというより、必要なときにエージェントへ指示を出し、頭の状態がいい時間に深く考える。仕事が断続的になった感じ。 ---- 3カ月くらい前は、AIを回すたびにレビューが発生して、普通に脳の負荷が高かった。エージェントを増やしたら楽になるかと思ったら、レビュー地獄が増えただけ。 ここはワークフローとハーネスを整えて、途中を逐一見なくても、入り口と出口だけレビューできるようにした。これがない状態でAlways Onにすると、ただ24時間仕事に追われる人になる。 ---- 入り口と出口だけ見ればいい状態になって、起きている間いつでも仕事を少し進められるようになった。でも、ずっと仕事のことを考えているわけではない。家族との時間や自分の時間も、むしろ前より取りやすい。 ---- 産業革命期の過酷な長時間労働への反発から生まれた8時間労働性が、AIエージェントによって変わるのではないか。連続で人間が稼働する働き方から、人は深く考える時間に集中し、その間もエージェントが仕事を進める形へ。これを健全に成立させるのは、AIのモデルの性能よりワークフローであり、ハーネスなんだろうな
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