TwiScan
人気
コミュニティ
アカウントコレクション
ログイン
登録
English
日本語
한국의
简体中文
繁体中文
登録して招待リンクを共有すると、動画再生報酬と紹介報酬を獲得できます。
今すぐ登録
検索結果
長崎を最後の被爆地に
長崎を最後の被爆地に コミュニティ
1つのキーワードが1つのコミュニティです。
コミュニティ作成
アカウント
見つかりません
長崎を最後の被爆地に
を含む検索結果
いのちの党
@inochinoto
2026.08.08 15:01
【声明】 「長崎・原爆の日」 (いのちの党 2026年8月9日) 長崎に原爆が投下されてから、81年目の夏となる。 原爆の犠牲となったすべての人々に、心から哀悼の誠をささげる。 また、今なお後遺症に苦しむ被爆者やご遺族の方々に、心からお見舞いを申し上げる。 「長崎を最後の被爆地に」 「ふたたび被爆者をつくるな」 この言葉は、単なる祈りではない。 地獄を生き延びた被爆者が、病気、生活苦、差別と闘いながら、国家補償と核兵器廃絶を求め続けてきた、命懸けの運動の言葉である。 長崎原爆被災者協議会は、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験ののち1956年6月23日に設立され、今年、結成70年を迎えた。また同年8月10日には日本被団協(2024年ノーベル平和賞受賞)が長崎の地で結成された。被爆者たちは、国の援護がないまま放置された状況を変えるべく、原爆医療法や被爆者援護法の制定、原爆症認定の拡大、さらには核兵器禁止条約の実現を求めて、国内外で声を上げ続けてきた。 被爆者健康手帳を持つ人は、2026年3月末で全国9万1,105人、平均年齢は86.66歳となった。 しかし今なお、長崎には、国が定めた被爆地域の外にいたため「被爆者」と認められず、被爆者健康手帳を交付されていない「被爆体験者」がいる。訴訟の原告を含む当事者の高齢化と死亡が進むなか、国による地域の線引きによって救済から取り残された人々を、今すぐ救うべきである。 残された時間は少ない。 受け継ぐべきものは、被爆した瞬間の体験だけではない。被爆者が沈黙を破り、国と社会を動かし、核兵器禁止条約の採択と発効を後押しした「ヒバクシャ運動の歴史」そのものを、次世代へ引き継がなければならない。それは、世界平和の土台となるものである。 長崎市の平和宣言文起草委員会について2014年以前の会議録がすべて廃棄されていたことが明らかになった。市は保存期間を20年に延長し、将来は歴史公文書として永久保存することも検討するとしている。 平和宣言の完成した文章だけでなく、被爆者や市民が何を訴え、どのような議論を経て一つ一つの言葉が選ばれたのか。その過程もまた、世界に残すべき歴史であり、平和への貴重な道標である。 長崎市は、長年、平和宣言などを通じて、「北東アジア非核兵器地帯」の創設を求めてきた。非核地帯とは、国際条約によって核兵器の生産、取得、保有及び管理が禁止された地帯である。世界にはすでに7つの非核兵器地帯(地域)が存在している。 この北東アジア非核兵器地帯構想では、日本、韓国、北朝鮮の3か国が核兵器を持たないと約束し、周辺の核兵器国が条約の附属議定書などを通じて、域内国への核兵器の使用や威嚇を行わないことを約束する。核戦争の危険を減らし、地域の緊張を緩和する具体的な取り組みである。 ところが、小泉進次郎防衛大臣は、防衛政策について「あらゆる政策をタブーなく議論し、進めなければならない」との姿勢を示した。政府は非核三原則を「政策上の方針として堅持する」とする一方、安保三文書改定の個別具体的な内容については明言を避けている。また、連立与党の日本維新の会は、2026年の政策集で「核共有を含む拡大抑止に関する議論を開始」すると掲げ、6月には総理に非核三原則の「持ち込ませず」について「現実的検討を行うべきだ」と見直しを提言した。今こそ、政府・与党は、被爆者をはじめ、長崎の平和宣言の声に耳を傾けるべきである。 日本政府には、非核三原則を国是として堅持し、法制化すること、核共有や核兵器の持ち込みを拒否すること、核兵器禁止条約に直ちに署名・批准することを求める。そして、被爆者運動の記録と証言を国の責任で保存・継承することを求める。 被爆者がつくり上げた歴史を、被爆者だけのものにしてはならない。 「長崎を最後の被爆地に」 その誓いを、次の世代の行動へと引き継ぐ。 わたしたちは、核兵器も戦争もない世界を実現するため、被爆者とすべての世代の市民の皆さんとともに、長崎の被爆体験の継承と核廃絶への取り組みに力を尽くしていく。 2026年8月9日 いのちの党
もっと見る
0
0
59
3.5K
1.7K
コミュニティへ転送
高市早苗
@takaichi_sanae
2026.08.09 08:50
本日、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参列し、原子爆弾の投下により犠牲となられた多くの方々の御霊に対し、謹んで哀悼の誠をささげました。 被爆から81年。焦土と化した長崎の街が美しく復興を遂げたことに、市民の皆様が積み重ねてこられたご努力、そして平和の尊さを強く感じています。 「長崎を最後の被爆地に」という誓いの下、「唯一の戦争被爆国」の使命として、「核兵器のない世界」の実現に向けた現実的かつ実践的な取組を推進します。 また、被爆者の方々への保健、医療、福祉にわたる「総合的な援護施策」を進めるとともに、特に「原爆症の認定」についてできる限り迅速な審査を行ってまいります。 挨拶では、この街に、81年前のあの日を経験した被爆樹木があることに触れさせていただきました。 被爆樹木の姿は、廃墟から見事に復興を遂げられ、「国際文化都市」として今日の姿を築かれた長崎市民の皆様の姿とも重なります。 式典の後、長崎原爆資料館を視察させていただくとともに、被爆者団体等の代表の方からご要望をお伺いし、さらに恵の丘長崎原爆ホームを訪問させていただきました。 恵の丘長崎原爆ホームでは、ご高齢の方々から笑顔で励ましていただき、私の方が「元気」をいただきました。皆様のご健康をお祈り申し上げます。
もっと見る
0
0
1.1K
22.6K
2.1K
コミュニティへ転送
首相官邸
@kantei
2026.08.09 04:33
【お知らせ】 本日(8月9日)、高市総理は、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参列し、犠牲となられた方々の御霊に哀悼の誠を捧げました。 高市総理挨拶要旨(速報版) 81年前の今日、長崎の地に投下された一発の原子爆弾により、多くの方々の貴い命が失われました。 街は一瞬にして焦土と化し、この地におられた方々の日常は瞬時に断ち切られ、家族と過ごす時間も、将来への願いも、すべてが奪われました。 一命をとりとめた方々にも、耐え難い苦難の日々をもたらしました。 内閣総理大臣として、原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで、哀悼の誠を捧げます。 そして、今なお被爆の後遺症に苦しまれている方々に、心からのお見舞いを申し上げます。 焦土と化した街が、このように美しく復興を遂げたことに、私たちは改めて、市民の皆様が積み重ねてこられたご努力、そして、平和の尊さを強く感じる次第です。 81年前の長崎と広島の惨禍を決して繰り返させてはなりません。 我が国は、『非核三原則』を堅持しており、「長崎を最後の被爆地に」という誓いの下、「唯一の戦争被爆国」の使命として、「核兵器のない世界」の実現に向けた現実的かつ実践的な取組を推進しています。 先般の『核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議』は、厳しい国際安全保障環境の下での開催となりましたが、我が国は、被爆地の方々の思いを伝えながら、『NPT』の維持・強化に向けた結束を各国に呼びかけました。 今後も、「ヒロシマ・アクション・プラン」に基づき、一歩一歩、着実に努力を積み重ねていく決意です。 世界に被爆の実相の正確な理解を広めていくことの重要性は、ますます高まっています。 世界中の指導者や未来のリーダーに被爆地訪問を呼びかけ、被爆の実相に触れていただくことで、核兵器使用の惨禍に関する記憶を継承していく取組を続けてまいります。 被爆から長い年月が経過し、被爆者の方々がご高齢となられる中、多様化する課題に向き合いながら、保健、医療、福祉にわたる「総合的な援護施策」を進めてまいります。 特に、「原爆症の認定」について、一日も早く結果をお知らせするため、できる限り迅速な審査を行うよう、努めてまいります。 「被爆体験者」の皆様に対しましても、被爆者の方々と同等の医療費助成を、着実に実施してまいります。 この街には、81年前のあの日を経験した被爆樹木があると伺っています。 強烈な爆風と熱線によって幹を焼かれ、枝を折られても、しっかりと大地に根を張り、再び葉を芽吹かせた被爆樹木の姿は、筆舌に尽くし難い苦しみと深い悲しみの中にあった方々の心に、希望の光を灯したことでしょう。 被爆樹木の姿は、廃墟から見事に復興を遂げられた長崎の皆様の姿とも重なります。 市民の皆様の不断のご努力により、「国際文化都市」として今日の姿を築かれた長崎市において、「核兵器のない世界」と恒久平和の実現に向けて尽力することをお誓い申し上げます。 結びに、原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊の安寧と、ご遺族、被爆者の皆様、並びに参列者、長崎市民の皆様のご平安を祈念いたします。 令和8年8月9日 内閣総理大臣・高市早苗
もっと見る
0
0
291
13.4K
1.7K
コミュニティへ転送
岡本みつなり/中道改革連合
@okamoto3nari
2026.08.09 02:51
「長崎を、核兵器が使われた世界で最後の街に」 佐賀で生まれ育った僕が、修学旅行で訪れた長崎の平和公園で、被爆者の方から伺った言葉です。 81年目の今日、犠牲となられた方々に心から哀悼の意を表します。 政治の責任を預かる者として、核なき世界の実現を諦めずに追求していきます。それが私たちの使命です。
もっと見る
0
0
28
3.4K
789
コミュニティへ転送
麻倉瑞季
@mizuki_asakura_
2025.08.09 11:04
「みんなが知らない麻倉瑞季」 実は「家族・交流証言者」であること。 被爆者の被爆体験を語り継ぐ者として、長崎原爆資料館等で講話をさせて頂いてます📖 私たちは被爆者から被爆体験を聞くことの出来る最後の世代だということを重く受け止め、長崎に生まれたものとして継承していきます。
もっと見る
0
0
46
3.6K
320
コミュニティへ転送
髙安カミユ(ミジンコまさ)
@martytaka777
2026.07.08 05:29
安倍さんの最大の功績は、米国議会での演説によって日米の戦争を歴史上の出来事に昇華させ、現在の日米同盟の重要性と意義を訴えたことだ。安倍さんはこれを「希望の同盟」と言い表した。その後、オバマ大統領の広島訪問と、自身のパールハーバー訪問が実現する。それ以降、米大統領が発する対日戦勝記念日の声明からは、日本を「敵」として非難する言葉が消え去った。日本人は広島・長崎を忘れないだろうし、アメリカ人はパールハーバーを忘れない。しかし、そのむき出しの感情からは、何も前進できない。安倍さんは、日米の最後の棘を抜いたのだ。
もっと見る
0
0
14
1.8K
386
コミュニティへ転送
クレア|日常の違和感言語化係
@kureakurea01
2026.07.15 22:10
日本は、核兵器が戦争で使用された唯一の国である。広島と長崎を「最初で最後」にせよ。その祈りは、人類が守らねばならぬ最低限の約束であろう。ところで、劣化ウラン弾を小さな核兵器と呼ぶのは、科学的には正しくない。核分裂による爆発も、原爆のような熱線も生じない。あくまで装甲を貫くための通常兵器である。しかしあたしは思う。「核兵器ではない」という分類が、ただちに「何の問題もない」という免罪符になるのも妙な話ではないか。 劣化ウランは、天然ウランより放射能が弱いとはいえ、放射性と化学毒性を併せ持つ重金属である。 砲弾が戦車などへ命中すると、微細な粉じんが生じることがあり、吸い込んだり体内へ取り込んだりする危険、残骸や土壌、地下水への長期的影響が問題となる。国連環境計画も、その性質と戦後環境への影響を調査してきた。 もちろん、劣化ウラン弾が広範な健康被害やがんの増加を引き起こすと、科学的に断定されたわけではない。 国際機関の調査では、多くの地域で放射線学的リスクは小さいとの評価もある。 一方で、破片への接触回避、汚染地点の把握と除染、地下水の監視などは必要とされ、長期的影響には不確実性が残る。国連総会も2024年、使用地点の情報提供や研究の継続を各国へ求めている。 兵器とは、爆発した瞬間だけ人を殺すものではない。 撃った兵士が帰国し、ニュースが次の戦争へ移ったあとも、土地には金属片が残る。そこで遊ぶ子どもも、井戸を掘る農民も、その弾を選んではいない。 「原爆ほどではない」「核兵器ではない」。 人間は、より大きな惨禍と比べることで、小さく見える惨禍を許す癖がある。だが戦場に暮らす者にとって、被害に大も小もないのである。 広島と長崎を最後にするとは、原爆だけを二度と落とさないことではない。 戦争が終わった後まで、名も知らぬ誰かに毒と恐怖を相続させる兵器を、一つずつ疑うことでもある。 あたしは、勝者が帰った後も土だけが敗者であり続ける戦争を、平和とは呼べぬことくらいは知っている。
もっと見る
0
0
0
25
6
コミュニティへ転送
Tansa/風穴をあけるニュース
@Tansa_jp
2026.08.08 07:47
編集長コラム・伴侶が封じた詩 私が知る祖父は、穏やかでお茶目な人だった。 絵を描くこと、山を歩くことが好き。横浜の祖父母の家に遊びに行くと、大学生の私に「ほら、これ素敵だろ」と、山で拾ってきた石ころをくれた。太極拳の道場では、師匠の指導を無視。独自の舞を繰り出して楽しむ。そんな人だ。 祖父が亡くなった後、祖母から昔語りを聞くようになった。そこには、私の知らない祖父がいた。 祖母は祖父よりも20歳近く年下。満鉄の理事をしていた父、後にイエール大学で博士号を取る兄ら「エリートの家族」で育ったが、20歳そこそこで祖父と出会う。祖母いわく「脱線した」。祖父には、戦前に別れた妻との間にもうけた息子がいて、祖母の親は「苦労する」と反対した。 それでも、「好きになっちゃったんだから仕方がない」。祖母は家を出て、結婚を強行した。 祖母にとって、驚きの連続だった。 同居する祖父の妹が、進駐軍の将校たちを相手に横浜でクラブを営み、家計を支えていた。その妹は、戦時中は上海でクラブのママをしながら、日本軍のスパイとして情報を集めていた。祖母には「お客の米軍の将校に、私がスパイだったことがバレたら大変だから、ヒヤヒヤする」と言った。 大体、祖父が戦前に何をやっていたかがよく分からない。どうやら思想を取り締まる「特高警察」に目をつけられていたらしい。祖父の叔母が、横浜の港から恋人とソ連に亡命した際、祖父が連絡役を務めたことがきっかけだった。 逮捕、勾留された経験もあり、その時のことを祖父は短歌にしている。 あやまちしとは思はねど鉄窓のある室に入れられればかなし 負けるかと歯噛みしあれど鉄の扉に鍵かける音が身に沁みにけり 吾が智慧に思ひあまりて堪えるなしつめたき壁に指触れてみる 指触ればしみじみ寒し留置場の壁隣りの室におんなの声する 吾がためにひとりの母は髪切りて二月の夜半をお百度踏み給ふ 天地のめぐみをうけしうしし世にここだ鉄窓を仰ぎつなくも 耐えてきし男の涙こらへられず母にだきつきて声をあげて泣く ▽「総てが自分の滅びる姿を賭けている」 戦後も祖父は、権力に対する反抗心を持ち続け、出版の仕事を手掛けていた。作家相手に「信念を曲げてまでカネになる作品を書いて恥ずかしくないのか」とけんかばかり。「信念を曲げるくらいなら飢え死にした方がましだ」とまで言った。 だが祖母は構わなかった。むしろ、そういうところに惚れていた。自分が洋裁の仕事で家計を支えるから、嫌な思いをしてまで働かなくてもいいと伝えた。実際、祖母が一家の食い扶持を稼ぎ続けた。私が「おじいちゃんは恵まれ過ぎだな」と羨ましがると、祖母は「金銭的な支えがあるより、心の支えがあった方がいい」と言っていた。 ただ祖母は、共に人生を歩むのに当たり、一つだけ条件を出した。 それは、詩を書くのはやめるということだった。 祖父は詩作をライフワークとしており、戦後も自分が編集・発行人となって『第一書』という詩集を、詩人仲間と共に出版していた。1951年の『第一書』では、「火花の匂い」という詩を発表している。 無慈悲な倦怠と悔恨家たちのために 腐った階段を降りる救世者 酔いどれた最高の地図の前で 人間の乾いた心は火のように息苦しく 白鳥の背に乗った明徹な像は ふたたびこの湖上には還らない 貧しい者は貧しさのまま 傷は傷のまま 権力は王座に眠ったまま 白い紙の鏡はうつろな眼の中で 力学の陰惨な壁に汚される 痛ましい渇望と拙棄と灰の底で 冷酷な火薬に嘯き ああ 総てが自分の滅びる姿を賭けている 祖母は祖父の詩に「気が滅入る」と感じた。自分と暮らすならば、詩を書くのだけはやめてほしいと願った。 伴侶からの願いを受け入れ、祖父は詩作を封じた。 ▽「お前との暮らしがあるだけだ」 1枚の写真がある。祖父母が羽田空港で写した写真だ。戦後しばらくは同居していた祖父の妹は、クラブに来ていた進駐軍の米国人と結婚して渡米。祖父母の家に遊びに来ていた妹が、米国へ戻る際に羽田空港まで見送った。その際に撮影した祖父母のツーショットだ。写真には祖父の言葉が添えられている。 「愛という言葉は知らない。お前との暮らしがあるだけだ」 祖父が亡くなった直後には、祖母の元に手紙が届いた。祖母は「お化けかと思った」とおどけていたが、ふたりが筑波万博へ出かけた際、10年後に届く手紙として祖父が祖母あてに投函したものだった。手紙は「僕はもうこの世にいないだろう。淋しくないかい」で始まり、「僕は君と一緒になれて本当に幸せだった。ありがとう」と感謝の言葉が綴られていた。 詩作を封じ、愛する人との暮らしを第一に人生を送る。覚悟ある祖父の決断であり、それを最後まで貫いたのは立派だと思う。 しかし同時に、「今の時代を祖父があの世から見たらどう感じるだろう」と思う。政治権力は好き勝手に振る舞い、弱い立場の人が苦しんでいる。戦争の足音が近づいている。権力に抗する表現活動をやめたことを、祖父は後悔していないだろうか。 1949年1月に発行された『第一書』の編集後記で、祖父はこう綴っている。 「前途には希望的な何ものをも見いだし得ないが、この絶望は、人類そのものへの絶望ではない。人為的なからくりに対する憤怒であり、闘魂である。広島、長崎のむごさは、人間に共通する原罪であり、悲哀である。反省である」 「僕らは個の平和を求め得られないことを知っている。僕らの可能は、全人類への信頼と愛情である。戦争がどこで起ころうがそれは僕らを放ってはおかないであろう」 祖母は生前、私に「おじいちゃんに似ている」と言っていた。 だが私は、ペンを手放さない。書き続ける。
もっと見る
0
0
1
81
36
コミュニティへ転送
カンテレ
@kantele
2026.08.22 09:00
西川きよしさん&石田靖さんの“やすきよ”コンビが、番組26年目にして初めて長崎・五島列島へ🌊🏝️ 西川きよしさん80歳の記念イヤーに、地元グルメを味わい、きれいな海でマリンアクティビティーも大満喫します😋🐬 旅の最後は、鬼岳で星空観賞へ🌌⭐️ 曇り空を前に、きよし師匠の“強運パワー”は届くのか―――☁️✨ 五島の人々との出会いと、26年目ならではの息ぴったりな掛け合いをお見逃しなく🥰💕 👇お二人のコメントはこちらから👇 📺『やすしきよしの夏休み2026』 8月23日(日)午後4時~5時30分
もっと見る
0
0
0
19
4
コミュニティへ転送
yoshitomo nara / 奈良美智
@michinara3
2026.08.06 16:07
大日本帝国に降伏を求める米英中(実質はヤルタ会談を行った米英ソ)によるポツダム宣言は7月26日だったが、日本は黙殺しました。連合軍に対して決死の反撃をしてダメージを負わせたところで、中立条約を結んでいたソ連に仲介してもらい無条件降伏ではなく条件付き降伏する案があった。しかしソ連は中立条約の持続にサインしなかった(その時点で参戦に気づくことは出来なかったのか?)条約自体は次の年の4月まで有効であるが、戦争とはいろんな決め事を破って当たり前の世界。 ポツダム宣言を即座に受け入れていれば原爆投下は防げたかもしれない。沖縄戦ですでに敗戦を確信していたという軍部にはとにかく最後まで抵抗してすこしでも有利な条件下で降伏したかった続行派がいた。日本軍部の中での戦争続行派と降伏派との意見の食い違い。そして広島、長崎に原爆が投下されポツダム宣言受諾に至った。と大まかには認識しているのですが、もし新型爆弾(原爆)の威力を日本軍部が事前に知っていたなら、もし5日までにポツダム宣言を受諾していたなら。しかし、実際の歴史に「もし」はありません。終戦の日が近づいて広島の日があり長崎の日があり、いつも繰り返してはいけない歴史をかつて宣戦布告をした国の国民として知らなければいけないと思っています。
もっと見る
0
0
0
1.5K
329
コミュニティへ転送
読み込み中...