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朗読劇 「たとえば、それが恋だったのなら、私の初恋はもう終わっている。」 前後篇のチケット販売開始しました! ★前篇★ 10月28日(水)〜11月1日(日) JOY JOYシアター ★後篇★ 11月25日(水)~11月29日(日) 劇場:Asagiri Mist Theater(旧・コフレリオ新宿シアター) 上演予定時間:約100分   開場時間:30分前 【出演日程】 前篇 浜浦彩乃(ワカナ役) 10/30(金)19:00~ 10/31(土)13:00〜 後編 浜浦彩乃(ワカナ役) 11月28日(土) ⑤13:00〜 /⑥18:00〜 ※公演終了後アフタートークあり 【前篇】 【後篇】 #たとえばそれが#
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【📢出演情報📢】 桜彩朗読劇 「たとえば、それが恋だったのなら、 私の初恋はもう終わっている。」 ー前篇ー に出演させていただきます✨ 📅2026年10月28日(水)〜11月1日(日) 📍JOY JOYシアター 🎫チケット発売 8月23日(日)19:00〜 #たとえばそれが#
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こないだ奢りにきた高偏差値JKが「好きなものが、ない訳じゃない」「だけど、ホントに『好き』と言っていいのか、不安になる」「だって、私より好きな人が沢山いるじゃないですか」と言ってたので、「へぇ。『好き』にも偏差値があるんだ」「じゃあ、どうなれば『好き』と言っていい?」と聞いたら 「うーん」と黙ったので、「じゃあさ、たとえば、学校の勉強を『好き』と言っていいのは、テストの偏差値が高いひとだけ、ってこと?」と聞き直したら、「いや、全然そんなことはないです。あっ...そっか...たしかに!」と納得していた。 「でもさ、どうして『好き』と言うのが怖くなるんだろうね?」「たぶんさ、あなたは学校の勉強を、正直どうでもいいと思ってるでしょ?」 「はい、たしかに」 「だから、逆にがんばれるんだよ。どうでもいいから。それがもし、あなたの核を支える、『好き』に近いものだったら、あなたの場合、がんばれない」 「たしかに、そうかも」 「うん、『好き』はこわいからね」 「こわい?」 「うん、こわい。だって、『好き』が否定されたら、じぶんを丸ごと、否定されたきもちになるでしょ。『好きだから』が、うまくいかないだけで、『好きなのに』になる。どうでもいいことをがんばれるのは、その結果が、ほかの人より劣っていても、『どうでもいいから』なんじゃないの?」 「そっか...私は『好き』で負けるのが怖かったんだ。だから、勉強はできる。好きじゃないし、負けていいから」 「だから、むやみに『好き』と言わないで居たいのは、競いたくないからなんじゃない?負けたくないっていうか、競いたくない。必要ないしね」
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ほんとうの出会いは、約束ごとじゃない。たとえば極端なことを言えば、恋愛というものさえ越えたものなんだ。つまり自分が自分自身に出会う、彼女が彼女自身に出会う、お互いが相手のなかに自分自身を発見する。それが運命的な出会いというものだ。
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この著者は、心理の世界の言語化がとても上手だと思った。「他人を攻撃せずにはいられない人」の内面への指摘や、攻撃を受けやすい人の特徴、攻撃を受けているのに気づかない人の心理などを描いた言葉に、ハッとさせられる。長いけど、めちゃくちゃ読んで欲しい。Xでよく見かける人たちの心理構造への理解の解像度も上がると思う。以下、引用。👉 「攻撃欲が強い人が欲しているのは、破壊である。他の誰かがうまくいっているのが許せない。それゆえ、他人の幸福や成功に耐えられず、強い怒りや敵意に突き動かされて、とにかく壊そうとする。  そこに利害がからんでいる場合もある。自分自身の願望や利益しか頭にない彼らは、自分が望むものを手に入れるうえでの邪魔者に対して、攻撃の刃を向ける。たとえば、あるポストに自分が就くために、ライバルを陰で中傷したり、足を引っ張ったりして、蹴落とそうとするような場合が典型例だろう。自分の行動がどれだけ混乱を巻き起こしたり、迷惑をかけたりするか、などということには決して目を向けようとしないわけである。  このようなエゴイストはなるべくなら近くにいてほしくないものだが、意図がわかりやすいため、実は対処もしやすい。厄介なのは、自分の利益がからんでいるわけでもないのに、あなたを打ちのめし、あなたがやっていることを台なしにし、ときには、あなたの人格そのものまで破壊しようとするようなタイプである。  しかも彼らは、悪意を隠して攻撃する。もしくは自分自身の悪意に気づいておらず、無自覚のまま、非常に残酷なことをやってのける場合もある。しばしば、『あなたのためを思って』とか、『こういう理由があってやっているんだよ』とかいった言い方で接してくるが、その善良で優しそうな仮面の下に何らかの悪意を隠し持っている」 「自分の近くにいる人の攻撃欲を見抜くことはとても難しい。 『いやいや、化けの皮なんてすぐにはがれる』とお思いになるかもしれない。でも実際には、自分が攻撃を受けていることに気づかないままでいる人はとても多い。  他の人がターゲットになっている場合は、比較的簡単に見破ることができる。気づきにくいのは、自分自身がターゲットにされているケースである。先ほど紹介した女性の事例からもわかるように、自分が痛い目に遭うまでは、はっきり認識するのが難しく、時間がかかることが多いのだ。  しかも厄介なことに、攻撃欲のある人は、攻撃していることを周囲に気づかれないように隠蔽することが多い。先の女性も、『先輩は、私の憧れです』などという歯が浮くようなおべんちゃらを真に受け、安心して愚痴をこぼしたり、新しい企画について相談したりしていた結果、気づいたときにはもう手遅れだったわけである。  このように、相手を直接攻撃するわけではなく、遠回しに打ちのめそうというタイプから身を守ることは、なかなか難しい。そういう人は虚実とり混ぜて語るし、誠実そうにふるまっていたかと思うと突然計算高さをのぞかせる。こうした二面性もあるので、一体どういう人なのかわかりにくく、周囲がころっとだまされることになりやすい」 「攻撃欲の強い人は、世間で一般に『善』として受け入れられているようなことをよく引き合いに出す。  正直でなければならないとか、寛大でなければならないといった、それが適切かどうか、日頃は誰も疑ってみないような考え方を持ち出すことが多い。子供の頃からしつけや教育の中で教え込まれてきた支柱であり、おとなしく従順な人ほど、こういうことがきちんと守られなければ社会は成り立ちえないと信じ込んでいる。(中略)  そこにつけ込んで、自分に都合のいいようにねじ曲げて解釈するのが、攻撃欲の強い人である。もし、あなたが何かを頼まれて断ったら、『友達が困っているのに助けないなんて、冷たい』といった言葉を吐いて、罪悪感を覚えさせるように仕向けるわけである。(中略)  相手に罪悪感を抱かせるうえで何よりも有効なのは、自分が被害者のふりをすることである。そうすれば、自分の責任は全て否認できるのだから。そのため、何か具合の悪いことがあっても、悪いのは常に他の誰かであり、自分はあくまでも被害者なのだという印象を周囲に与えようとする。  ターゲットにされやすいのが、誰かが困っているとすぐに同情して、助けてあげたい、慰めてあげたい、守ってあげたいなどと思うような人なのは、決して偶然ではない。こんなふうに優しい人は、少しでも責められると、悪いのは自分なのかと罪悪感を抱きやすいので、攻撃対象としてうってつけなのである。  そのうえ、攻撃欲の強い人は逃げるのもうまい。もし、あなたが、『私が一体何をしたというのだろう? なぜ私がこんなに責められなければならないのだろう?』と疑問を感じて質問しても、巧妙に話をそらせたり、論点をすり替えたりする。ときには、別のことであなたを攻撃して、あなたの心の中にさらなる混乱の種をまくかもしれない。  だいたい、質問にはちゃんと答えず、はぐらかす達人である。そのため、あなたが、自分には落ち度がないのに責められることが納得できず問いかけても、のれんに腕押しだ。あなたは、痕跡を残さずに殴られ続けているような気になるかもしれない。  要するに、攻撃していることを隠蔽しながら攻撃するのが常套手段である。もし、わかりやすいやり方で直接攻撃するようなことをすれば、反撃されるかもしれない。説明を求められるかもしれない。場合によっては、相手が防御したり、逃げ道を見つけたりするかもしれない。そうさせないために、自分は責めているわけでも、攻撃しているわけでもないと否認しながら、ターゲットを身動きできない状態に追い込んでいくわけである」 「ターゲットを孤立させるのも、攻撃欲の強い人の常套手段である。  従事している仕事や活動をけなしたり、せっかく築いた人間関係にけちをつけたりして、徐々に他の人とのつながりを断ち切るように仕向けていく。そのために脅すこともあれば、いさかいの種をまくこともあるが、いずれにせよ、周囲との関係に亀裂を入れようとする。  これは、ターゲットが他の人との交流によって考えを変えたり、支えてもらったりするようになるのを防ぐためである。そんなことになれば、影響力を行使しにくくなるので、シャットアウトするわけである。  というのも、攻撃欲の強い人は、自分がその場を支配できないとか、影響力を行使できないという状況に直面すると、強い不安にさいなまれるからである。そこで、そういう事態を極力避けるために、自分の思い通りに操作できるよう策を弄することになる。  ターゲットの家族、友人、同僚、さらには仕事や趣味にまでけちをつける。ターゲットが好意的な判断を下しているものでも、批判したり、けなしたりして、締め出そうとする。『あんな親だと、うまくいかないのは全て親のせいにできるよね』『なぜ、あなたがあんなことに貴重な時間を使うのか、わからない』といった言い方で、ターゲットが周囲の人々に対して疑惑や不信感を抱くように仕向けるのである。  このように孤立させようとするのは、自分のあずかり知らぬところで、ターゲットが能力を発揮したり楽しみを見出したりすることに耐えられないからでもある」 「ある人が攻撃欲の強い人だということに気づいたら、最良の解決策は、できるだけ避けるということである。  たとえば、同じ職場で働いている場合、勤務の時間帯を変更するとか、向こうがよく行く場所には足を向けないようにするとかして、なるべく顔を合わせないようにする。場合によっては、異動や転勤を申し出るという選択肢だってあるかもしれない。  そこまでするかと思われるかもしれないが、私の外来に通っていた会社員の女性は、背後を通り過ぎる際に『死ね』とつぶやいたり、すれ違いざまに『邪魔』と叫んだりする先輩に悩まされて眠れなくなり、しばらく休職した後、自ら希望して別の支店に転勤した。  転勤後、受診した際に、『支店が変わって、本当に良かった。ずっと胸につかえていたものが、やっと取れたような気がします。会社に行っても、あの人の顔を見ずにすむのかと思うと、伸び伸びと仕事ができます。ときどき、研修会や会議などで会うこともありますが、もう私とは関係ありませんから』と語った。ちなみに、例の先輩はその後、新たに配属された女性社員をターゲットにして同じような嫌がらせを繰り返したため、パワハラ委員会に告発されたということである」 『他人を攻撃せずにはいられない人』 著者:片田珠美 発行:PHP研究所 @PHP_Business
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人間関係は、白黒ハッキリしたものよりも「あの人は好かないけど言ってることは正しい」とか「この主張だけは肯定できる」「信頼できるけどこの一点は許せない」みたいな割り切れなさが大多数を占めている。なのに、その複雑さを捨て去って、敵か・味方かみたいな単純な関係で人と人を捉えるなら、それは社会を分断する方向に働くだろう。合意も何も、生まれようがない。👉 たとえば『なめらかな社会とその敵』では、「公敵なき社会」が構想される。なめらかな社会とは、敵か味方か、善か悪か、お前はどちら側かみたいな二項対立をなるべく減らし、複雑な現実を複雑なまま、関係性のなだらかな連続性をもきちんと含み込んで捉えていこうとする側面を持つ社会のことだ。 その実現のために、同書ではシュミットの「友−敵論」が批判的に検討される。もちろん、著者の精密な手さばきをもってしても敵/味方の観念を完全に排除することはできない。 ただ、敵か味方かみたいな関係のありようは、それこそ相互の関係値や環境、時と場合によって変化し得るし、敵というラベルを貼るにしても「それがどの程度なのか」「敵と見なす度合いや範囲、種別はどうか」といった視点を導入することによって、敵化することの暴力性が幾分か変わってくる。白か・黒か的な発想の暴力性が、それによって緩和される可能性もある。そしてこれは、「みんなでぶっ潰しても構わない敵=公敵」をなるべく生まない、公敵を必要悪にしない知恵としても重要である。 そういった見立てが民主主義的な社会を構想するのに大切だ。 こういう発想、もっと広まってほしい。
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最近AIの話って、なんかちょっと暗い話が多く感じる。 AIが軍事に使われるとか、国が管理するとか、仕事がなくなるとか、格差が広がるみたいな話。 確かにそういう面はある。 でもさ、物事ってもっと多面的よ。 AIは決して強い人だけのものではない。 AIは、普通の人とか、認知能力弱い人とか、弱者にとってかなり強力な味方になる。 テクノロジーは、弱さを助けてきた そもそもテクノロジーって、昔から「弱さ」を助けてきたんよね。 昔、伊勢参りに行くってなったら、何日も歩ける体力がいる。 遠くの友達に会いに行くのも、体が弱かったらかなり厳しい。高い場所に上がるのも、足腰が弱い人には難しかった。 でも今は違うやん。 車がある。電車がある。新幹線がある。飛行機がある。エレベーターもエスカレーターもある。 体が強くなくても遠くへ行ける。足腰が弱くても高い階に上がれる。昔なら諦めていた場所に、今は普通に行ける。 これは、テクノロジーが身体の弱さを補ってきたということや。 で、AIも同じ。 ただしAIが助けるのは、実際の足腰やない。認知の足腰や。 考えるのがしんどい。調べるのがしんどい。読んでも分からん。選択肢が多すぎて適切なものを選べん。 そこを助けてくれるのがAIや。 現代社会は、普通に難しすぎる 今の社会って、便利になったように見えて、実はめちゃくちゃ複雑やん。 たとえば証券口座ひとつ見てもそう。 現物、信用、NISA、余力、受渡日、etc. 専門用語は多いし、仕組みも複雑。 自分の資産が結局いくらあるのか。今どれくらいリスクを取っているのか。売ったお金はいつ反映されるのか。 こういったこと把握するだけでかなり苦労する。 携帯を選ぶのも、携帯プランを選ぶのもそうやね。 どの会社がいいのか。何ギガ必要なのか。通話オプションはいるのか。保証はいるのか。この割引条件は本当に自分に合っているのか。 健康診断もそうやし、店のタッチパネルもそうやし、スマホの設定もそう。 情報や仕組みはある。 でも、それをちゃんと理解して、自分に合う形で使いこなすのが、めちゃくちゃしんどい。てか無理。 つまり現代社会って、「頭の体力」をかなり要求してくるんよね。 そして頭の体力が足りないと、普通に損をする。お金でも損をする。時間でも損をする。本来使える制度にも届かない。 昔は身体の壁があった。 今は認知の壁がある。 AIは、自分の守護神になる そこでAIなんよ。 AIは、自分側の事情を整理できる。相手側の複雑な仕組みも読める。その間に入って、要約して、比較して、手順に落としてくれる。 たとえば携帯プランなら、 「ワイは月にこれくらい使う。通話は少ない。子供の分も一緒に払いたい。」 みたいな自分側の事情がある。 一方で携帯会社側には、プラン、割引、オプション、契約条件、キャンペーン、解約条件、保証、端末価格がある。 本当は、この両方を理解して、自分に合う組み合わせを選ばないといけない。でも普通はそんなことできない。 もし横に、頭がよくて、親切で、自分のことも分かっていて、携帯会社の仕組みにも詳しい人がいたら、めちゃくちゃ助かるやん。 AIは、それができる。 いわばジョジョのスタンドみたいな存在。横にいて、自分のことを分かってくれて、複雑な世界から守ってくれる存在。 証券口座なら、資産、リスク、税金、余力、ポジションの偏りを整理してくれる。 携帯プランなら、自分に合う選択肢を絞ってくれる。 役所の手続きなら、必要書類と手順を分かりやすくしてくれる。 健康診断なら、数値の意味と次にやることを教えてくれる。 これが低コストで使えるようになる。 それって、ただの便利ツールやない。 自分の守護神や。 強い人だけでなく、むしろ弱い人への恩恵がある。 今まで社会の複雑さに負けていた人も助けられる。手続きで損をしていた人も助けられる。情報が多すぎて選べなかった人も助けられる。理解が追いつかず諦めていた人も助けられる。 体が弱い人が車や電車で遠くへ行けるようになったように、認知の足腰が弱い人も、AIによって社会の複雑な場所へアクセスしやすくなる。 AIは国や強者のためだけじゃない。 普通の人、弱者への恩恵はめちゃくちゃ大きい。
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「人は、自分の文法で愛を探してしまう」 人は無意識に、 自分と同じ愛し方を相手に求める。 だから、 違う愛し方をされると、 愛されていない気がする。 不安になる。 しかし実は、 相手は相手の文法で愛を伝えている。 その文法が読めないこと。 期待した形で欲しいものが返ってこないこと。 それが苦しさになることがある。 でもよく見たら、 相手は別の形で、 ずっと差し出しているのかもしれない。 愛は、 自分が期待した姿で現れるとは限らない。 たとえば相手が、 昔から大切な人にはまめに連絡していた。 困っている人を放っておけなかった。 好きな相手には時間を使っていた。 そんな話を思い出してみてほしい。 その人が今、 自分に何をしているのか。 その時、 今まで見ていた行動の意味が、 少し変わることがある。 言葉で愛を伝える人は、 言葉を求める。 一緒にいることで愛を感じる人は、 時間を求める。 何かをしてあげることで愛を伝える人は、 行動を求める。 人はどうしても、 自分の文法で愛を探してしまう。 だから、 そこにあるものが見えなくなる。 でも、 相手の文法が読めるようになると、 今まで見えなかったものが見えてくることがある。 「なかった」と思っていたものが、 実はずっとそこにあった。 相手は、 自分の文法ではなかっただけで、 ずっと愛を差し出していたのかもしれない。 人を理解するというのは、 相手を自分に合わせることではなく、 相手の文法を知ることなのかもしれない。
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「みんなが良いというものが、本当に自分にとっても『良いもの』だと思いますか?」 先日、大学で講義をさせていただく機会があり、学生さんたちにそんなお話をしました。 私たちって、知らず知らずのうちに「流行り」や「みんなが選んでいるから」という理由で価値を決めてしまいがちですよね。 たとえばネットで買い物をするときや、お店を探すとき。「失敗したくないから」と、星の数や見知らぬ誰かのレビューばかり気にして決めていませんか? もちろん、みんなの意見や平均点も参考にすればいい。大事な情報です。でも、多数決や平均がすべてではありません。 当たり前のことを言いますが、誰かの「星5つ」が、あなたにとっても「星5つ」とは限らない。逆に、世間の評価はイマイチでも、自分の心が「なんかこれ好きだな」と動いたなら、それこそがあなたにとっての最高の正解なんです。 それにね、自分で選んでだとして、たとえ失敗したとしても、それでいいんです。誰かの評価に乗っかるより、自分で選んで転んだ経験の方が、何倍も人生を面白くしてくれますから。 周りのレビューや世間の平均点に、自分の軸まであけ渡す必要はありません。今日も誰かの評価ではなく、自分の心のセンサーを信じて。自分のペースで、ぼちぼち進んでいきましょう。 おはようございます! 2026年7月26日(日)朝5:13の空。
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「多様性が大切」と言っている人同士が互いを認めず中傷し合っているのをよく見かける。多様性という言葉を「自分の意見を押し通すため」に利用している場面も見かける。わがままな自分を「多様性」という言葉で飾って、でも実際は「自分に都合のいい多様性しか認めない」という人もいる。そういった自身の不純さを「まず認識すべきでは?」と、カール・ポパーが昔から指摘していた。 「みんな違ってみんないい」と言われる一方で、「許容してよい度合い」はやはり個々人や文化、場面で違う。たとえば、それぞれを認めるにしても加害者と被害者を両論併記的に同列に扱ってしまってはいけないし、被害者を優先的に大切にしなければいけないという倫理は、社会を成り立たせるために当然必要。また、多様性を語るときには必ず「多様性を認めない人の多様性も認めるべきか」という議論もしなければならない。時には「多様性を蹂躙する人の非寛容さを認める訳には絶対にいかない」という判断をし、他者を場外に追い出すことの負い目を背負わなければいけない場面もある。 そもそも「みんな違ってみんないい」のだとして、加害者がいいと言っていいのか? という議論はやはりすべきである。つまりそれは「非寛容な人にも寛容であるべきか?」という古典的な問いに答えなければいけないケースで、ポパーはそのあたりを結構、明確に論じている。 「無制限の寛容は確実に寛容の消失を招く。もし我々が不寛容な人々に対しても無制限の寛容を広げるならば、もし我々に不寛容の脅威から寛容な社会を守る覚悟ができていなければ、寛容な人々は滅ぼされ、その寛容も彼らとともに滅ぼされる」 「ゆえに我々は主張しないといけない。寛容の名において、不寛容に寛容であらざる権利を」 『開かれた社会とその敵』 著者:カール・ポパー
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